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河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

始めましての人へ。

河合つくし(@cramponasahi)の個人ブログです。文責は私にあります。

 

元々はぐずぐずと名乗っていたものです。今は河合と名乗っています。

 

ブログのおおよその雰囲気はカテゴリ見て察してくださいな。

基本は雑文書き散らかしてます(汗)。

私への連絡についてはツイッターのDMかメルアド(cramponasahi@yahoo.co.jp)。にお願いします。

ちなみにツイッターのDMの方が反応早いです。

この記事はブログの一番最初に表示されるように設定されています。

 この記事は2013年6月に書かれました。最終更新は2015年8月です。

世界の果ての天皇

ロマが持っていた「皇帝ジギスムントの特許状」と日本の木地師が持っていた「朱雀天皇の綸旨」は似ている。

両者とも移動生活をするマイノリティが「高貴なる存在からの保護」を背景に各地を放浪していた歴史は興味深い。

堀田善衛の『定家明月記私抄』には…

「元来天皇家というものが、これらの遊女、白拍子、舞人、猿楽、さらには武芸を事とする武人などの芸能民とともに、各種の職人、広い意味での宗教人など、いわば非農業民、それを別の言葉で言いかえるとして、『遊手浮食』の徒、『無縁の輩』などの『道々の輩』、すなわちこれら路上の遍歴民を統轄し保障をする存在であったことを確認しておきたい」

…と書いているけど。天皇家を始めとした「高貴なる」存在の意味と言うのは社会的な弱者(放浪の民)の保護。
この一点に尽きると思う。

なので…。
教育勅語国家神道に代表される「ピラミッドの頂点としての天皇像」「ナショナリズムの権化としての天皇像」には、強い違和感を俺は持っている。

自民党改憲を成し遂げた結果、現状の象徴天皇制からさらに進んで「旧憲法的なナショナリズムの権化としての天皇」が仮に復活するようなことになれば、俺は皇家は歴史的使命を終えたと考えて、天皇制廃止論に傾く。

あるいは皇家の末裔の誰かを探し出して、それを推戴して後南朝のように世界の辺境で細々と生きていくか…。
そーゆーSF的な生き方をしたいと思うが…まぁ難しいだろうな。

最近、手塚治虫の遺作「グリンゴ」を読んだ。

この作品には外界から孤立した南米辺境のジャングルに村を造って、自分たちの信じる「古き良き日本の生活」を守ろうとする日系人が描かれている。

ああいう孤立した村で一心に自分達の都合のいいことを信じて、世界の一切から背を向ける隠者みたいな生活はいいなあと変な憧れを持ってしまった。今日もとくに脈絡のない文章…。

2017年3月時点の簡易自己紹介。

2017年3月時点の自己紹介。

ぶきっちょ。
基本、気が弱い。
怠惰で眠くて布団が好き。
通ぶりたい。でも無茶苦茶詳しい方ではない。
権威は嫌い。しかしなんだかんだ寄りかかりたい(あせ)。
さんぽがすき。テーマパークや名勝地よりも込み入った街や路面電車やアーケードや市場を歩くのを好む。

介護員。アナキスト社稷派)、アジア主義者。
東池袋りべるたんず、我道会員、ヤンコミメンバー、農包委鍋奉行

好き…ZabadakCoccoASIAN KUNG-FU GENERATION矢野顕子倉橋ヨエコ秋山瑞人谷川流村上龍佐藤さとる宮沢賢治大石まさる幸村誠高橋しん安彦良和安倍吉俊ばらスィー、青山景、橘孝三郎朝日平吾宮崎学網野善彦赤松啓介
たらこパスタを食べる。オカリナを吹く。

時たま夜の路上鍋&語り場を池袋などで開催中!
正義は常に可愛いと思う。ユートピアを希求。
30歳(平成29年現在、24歳)までに海外放浪と居住(東南アジア方面)をする予定。トラベル英会話くらいは身につけたい。

好きな言葉
  • 「わが国(ウリナラ)」と彼らはためらわずに言う。日本を「わが国」とわたしは言えず(野樹かずみ)

森友学園の籠池泰典さんに少し同情した。

安倍晋三首相、森友学園問題「一切関わっていない」

www.nikkansports.com

黒田保久二という男がいる。右翼団体「七生義団」のメンバーで、戦前の衆議院議員の山本宣治を暗殺した人物だ。

彼は獄中で「共産主義者を殺すのだから、もちろん無罪で、十万円もらえるということだったのに、こんなところにぶちこまれてしまった」と零したと伝わっている。

権力は左翼を一方的に弾圧し続けている。

一方「右翼」はどうか。
多くの右翼は、権力や保守大物政治家に調子よく持ち上げられ、何かあると尻尾を切られる存在であると思う。

古くは幕末の岡田以蔵赤報隊相楽総三の例。
戦後の反共抜刀隊とロッキード事件児玉誉士夫、そして暴対法の施行。

最近だと「海老で鯛を釣る」の「エビ」と化した在特会とそこに付和雷同する右派諸君。

いつの時代も権力は右翼を利用するだけ利用して、ある瞬間にはぽいと棄ててしまう。
右の多くはいつまでたってもそのことを学ばない。
多分、これからもそうなんだろう。

森友学園の籠池泰典さんもその例にその例に漏れずって感じか。
可哀想に。少し同情する。

貴方の信じている「お国」ってのは、つまるところ貴方を切り捨てる存在だったんですよ…って言いたいなあ。僕は。

そんな事を百も承知の上、それでも「お国に尽くしたい」と言い切れるような人がもしいたら、万一いたら、僕は永遠に大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大大尊敬してやる。
ただ、この人も僕もそんなに「出来た人」じゃないんだろうって気がする。

「ガロに思うこと」

世代的にガロを直接読んでいたわけではないのだけれど…。

今思うと、自分はそれなりにガロ系の作品を読んでいたなあと思う。
少し上げると…。
赤瀬川原平路上観察学入門」にはじまり、福満しげゆき近藤ようこ花輪和一山田花子ねこぢる…なんか、かなあ。

一概に「ガロ系」とはどう。。。ってのはないんだけど、でもしいて言うなら…不謹慎でぐちゃぐちゃで、不道徳で、反正統で…だからこそ妖しい魅力を放っているって感じだろうか。

俺の場合、もとがひきこもりだからなあ…。

まず、南条あや保護室(当時はまだ、公式HP落ちてなかった)から、coccoを知って、その当たりの世代のシンガーソングライター(椎名林檎、鬼塚ちひろ、小島麻由美とか)を知って、その後、完全自殺マニュアルを読んで、そのらへんから、ねこぢるとか山田花子を知ったとゆー感じだろうか(いかにもかな…w)

ガロ系の作品は「ダメな人」がたくさん出てきて、そのダメな人の感性が面白く、共感できたし、俺以外にもこんなこと考えているんだな的な…厨ニ意識w(そのころすでに20歳近かったが\\\)を刺激したと思う。

王道の「勇気、友情、努力」って感じの漫画が読めなかった俺(だって、ひきこもり時代は友だちもいなかったし、努力もしてなかったもん)としては、変にまぶしい漫画なんざよりもはるかにこの手の薄暗く、後ろめたい漢字の作品の方が読みやすかった。

それにねこぢる山田花子とか特にそうなのだけど…飾らないで思ったことを書く雰囲気が好きだった。

例えばねこぢるは「作者の嫌いなモノは豚」で悲惨なオチになるってゆー子どものような純粋で冷酷で率直な悪意が表現されてて好きだった。
そこにはモラルも義務感も遵法意識もなかった。そのアナーキーさが俺にはツボにはまった。

昨日の深夜のニュースで、ガロの版元の青林堂が大変なこと…つまりブラック企業化しているとゆーことを改めて知った。

それに今の青林堂が出している本はネトウヨだの、なんだのが好きそうな本ばかりで、ぶっちゃけ俺は嫌い。
ネトウヨは法規範やら「国民、市民意識」が高いから嫌いだ。

ダメで、子どもで、意味分からなさってのが、あの人たちにはないなと思う。

「わけわからないこと」を面白がったり、そこで立ち止まったりするのがサブカルの醍醐味ではないかと俺は思う。ガロなんて、まさにそーゆ漫画だった。

「あいつは決められた枠を超えたから追い出せ、叩き出せ、殺せ」と主張するのはサブカルにあらず。とゆか、それこそがサブカルを萎えさせる元凶だと思うのだ。

いつのまにか青林堂がそゆ出版社になってしまったようでお兄さんは哀しいです。

何でもかんでも「近代」を押し付けていいのか…そこに多少でも「逡巡」を感じてしまうのが、俺の右翼たらんと言う部分なんだろう

太平洋のポリネシア地域にはピトケアンという島がある。人口50人にも満たない小さなイギリスの海外領土だ。

この島では12歳以上ならば大人であり、結婚とセックスをしてもいいという「風習」があった。

だから多くの住民は12歳で結婚していたそうだ。

もっともこの島はイギリスの領土である。そしてイギリスの近代法に照らし合わせれば12歳の女の子とセックスするのは「犯罪」。

だからこの島に住む大多数の成人男性は「犯罪者」だとして、その是非を争う事件が98年ごろあったそうだ。

俺も近代人だから、12歳で云々…ってのは「犯罪」だと思う。

一方で近代の論理を小さな離島にまで振りかざして、一方的に「犯罪」と決めつけるのもどうかと思う。

特にこの事件では島の女性たちも「犯罪者」とされた男性を擁護したそうだ。
この島では「それが普通だから」と。

この手の話は何もピトケアンだけではない。

中国共産党チベットに進駐して「チベットの封建制」を廃したこと、日本が朝鮮を領有して、朝鮮の封建制を破壊したこと…これらもピトケアンと似ている。

確かに近代人の視点から見たら、チベットも朝鮮もピトケアンも「封建制を続けている方が野蛮で悪」なんだろう。

でも、その土地にはその土地のやり方もあると思う。それを尊重せず近代の論理で断ずることは本当に「正義」なのか。

正義と言い切っていいのか…と言われると迷う。

そして封建制の文化が失われたから、チベット仏教が衰退したとも言えよう。

俺は「近代の論理」が古い文化を残す地域を浸食(啓蒙とも)することが絶対的な正義と言い切れないと思う。

勿論、俺だって近代人としての感覚は有しているので…近代的な価値観の方が「個人の人権」を守ることくらいはわかる。

でも、何でもかんでも「近代」を押し付けていいのか…そこに多少でも「逡巡」を感じてしまうのが、俺の右翼たらんと言う部分なんだろうな。良くも悪くも

大きなもの(国家や大資本)より個人と個人を取り巻く小さな世間(国家主義より、組合(アナルコ・サンディカリスム)或いは社稷)を優先にする考え方

「癖のない=多文化否定」ってのがネトウヨの主張。多文化否定だから右翼ですらない。近代的で、無難で、世間体が良く、世間の善行をつめばキチンと返ってくる(現世利益&公正世界仮説)って思ってる。その辺が俺はダメなんだ。

俺はぶっちゃけ、犯罪者でもなんでも「面白ければ」いいってゆー不真面目な考え方がちょっとあるし、そういう意味では俺は、ネトウヨよりはるかに「露悪的に自分本位」なのだと思う。まぁ俺は不真面目なので…ネトウヨにならないんだな。モラルより、楽しいかどうかだよ。君。大事なことはね。

「市民の権利」で吹きあがるリベラルもネトウヨに近い部分はある。ただ、リベラルは言ってはいけないこと(差別)とかは言わない(教養があるから?)。そこに違いがある。ただ、似ている部分も感じる。吹きあがり方とか…だから俺はそゆのには距離をとってる。

俺は自分の周りが良ければそれでいいと思ってる。同時に世間のみんなもそう思って、俺もみんなもただ自分の周りを良くすれば、社会はもっと住みやすくなると思う。

同時に大事なのは、大きなもの(国家や大資本)より個人と個人を取り巻く小さな世間(国家主義より、組合(アナルコ・サンディカリスム)或いは社稷)を優先にする考え方だと思う。

それをほんまに優先させる社会ないし国が出来ればけっこうけだらけだ。まじめさ…とゆーか「まじめさという義務」を強いる大きなものは俺の敵だよ。

 
 
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人生と「サガ」

遊牧民の名乗りは「私はなんとかの孫、なんとかの子、なんとか地域のなんとか太郎」と行くわけでさ。
自分とは何者か?と言うのが「血と土」の説明なのだ。

日本でも「襲名」とゆ文化が伝統芸能にあるし、あるいはなんとか流派みたいな「流」を示したりする。

中上健次とゆ作家はすごくて、彼の「紀州サーガ」の作品群を読み解くと、そこに彼のアイデンティティーが見られる。中上は熊野の「路地」の生まれ。

紀州サーガの後期の作品「日輪の翼」は紀州熊野の「路地」が開発により、なくなった為に行き場(生きる場)をなくした老婆を主人公の青年がトラックに乗せて、日本中の熊野のような霊場に赴き、最後にトラックは東京の天使さまの身元にたどり着く……!

中上は自分たちは、最初から最後まで「熊野の路地のもの」だと作中である種の諦観、そしてその諦観にこそ自分らの「生活があった」と作品で示したのだと思う。

それはある種の限界でもあり、その限界にこそ自分(あるいは中上の生まれ育った「路地」の生まれのものたち)と世界の隔てる差、あるいは自らの輪郭、あるいは「内と外」あるいは「肌」があるのだと表したのだと思う。

ちなみにアメリカだと「我々は季節労働者だ!」と言う一点を誇りと自由とそして諦観の気持ちを込めて、強く押し出したスタインベック中上健次っぽい。
怒りの葡萄は名作だよな。

「自分はこれでなきゃ生きていけない」と言えないで、「これは正義だ悪だ」とのたまうようではダメだと思う。

そして「これでなきゃ」には自分のルーツや生まれ育った土地柄も関係してくるはず。

それを言い切る俺は唯神論者であり、右翼そのものなのかもしれないなと雑考。

まぁそんな大層なものが自分にあれば、そして仮にそれがあったとして、俺は背負うのだろうか?って話だけどな

小田原のジャンパー問題について。

(これは「人から聞いた話ですよ」)。老老介護が進んでいる現代では、老人ホームの職員に対して、過剰、執拗なことを言う利用者の家族がいる(家族の方も「認知症?」)。生保の問題も「不正受給」だけじゃない。会話の相手が職員しかいないような社会的に孤立したり、精神の問題を抱えた受給者は多い。

そういう人が職員に対して「ずーっと深刻な話」をする事例は多いと思う。職員が参る気持ちも分かる。職員に対するメンタルケアが十分にできていないから、今回の問題がある。今回の小田原の事例は「差別」というか「虐待」にあたるケースだと思う。虐待は無論絶対悪。

ただ…職員のメンタルケアのことも考えないとこの手のことは続く。俺が言いたいのは今回の件で吹きあがって「電話で抗議する」とかそゆ問題じゃない。バカな市民が役所に抗議しても根本は解決しない。大事なのは色々と問題抱えた人を役所や福祉に全てお任せするのではなく、俺ら(市民運動)の側でどうやって、少しでも内包していくかって話だと思う

組織とは、国家とは何か?

家族とか、学校とか、会社とか…もっと大きい括りならば宗教や民族や国民国家。要するに「組織」。

こゆのがなぜあるかと言うと…誰かを切り捨てるためなのだと思う。

極論だが「飢餓」が起きたとする。
10人に食わせるはずのご飯が8人分しかない…。
飢餓とはそういうモノだと思う。

じゃあ「食えない2人」をどうやって選ぶかって話なのだ。

その時、あいつは違う宗教だから、違う民族だから、違う国民だから、よそ者だから、過去の歴史上云々だから…。

と…要するに「見殺し」にするための方便として「組織、国家、宗教、民族」があるのだと思う。

勿論、見殺しにされた側は黙って死ぬわけにはいかないから…闘う。
これが戦争に発展したり、民族・宗教紛争になったりする。

特定の民族や宗教が悪いと言うことではない。
「モノがない」という構造が産む悲劇だ。

人間と言うのは一人では生きられないものだから、「組織」があるのは仕方ない。

ただ「組織」を造っている以上、我々は遂次誰かを見捨ていることを認識しなくてはならないと思う。これは性悪説と言える。

一般論だけれど、我々が出来ることは…8人を助けることに満足するのではなく、9人目を助けることを目指すこと。

100パーセントは無理なのだけれど…しかし最大限こう、努力なり、「組織」を広げてそこから落ちこぼれる人を減らさなくてはならないわけ。

俺はナショナリストではないので「自分の属しているいかなる組織」も完全だとも思わないし、他の人の属している「組織」と比べて、特別に優位(神に選ばれたとか)だとも思わないがな。

ただまぁ、ある種…このような「組織の負の部分」を知りつつ、それでも「組織」と言うか…自分を含むすべての人は「群れて」生きていかないと思う。

老人談義と拝金病と自らのルーツと…。

久しぶりに母方のばあちゃんの家に行く。祖父は半年前に亡くなった。
 
ばあちゃんの話すことは近所のなんとかさんが亡くなったこと、老人ホームに入ったこと、その老人ホームにいくらお金がかかっていること…そんな事ばかりだ。
 
近所のおじいちゃんは人工透析を始めたから、年500万かかるからどうのこうのと言う話もあった。
 
ばあちゃんは「生きていくためにはお金が必要なのね、この世知辛い世の中」みたいなことを言っていたのが印象的だった。
 
ちなみにばあちゃんは聞いたところによると…。あの人は確か警察官の娘で、しかも父はそれなりの高位の警官だったらしい。弘明寺の官舎に住んでいて、山手の女学校に通っていたらしい。
 
横浜大空襲の後の日も弘明寺から焼跡を歩いて山手に行ったとか、その父が早く病気で亡くなったので…花月園競輪場で若いころ働いたとか、あの人の母は浦賀で海軍さんの料亭をやっていた品のいい人だったとか…まぁなんだ…当たり前だけど…そういう家族の歴史があるんだなあと思う。
 
しかしまぁ先祖(というかひいじいちゃん)が地位のある警官で、その末裔がこーゆー人間なんだと考えたとき、あーあと…父方の方もじいちゃんは学校の理系の教師だったらしいしなあ。
いやはや、そう考えると…血統なんざ意味ねーってか、競馬場のお馬さんくらいにしか役に立たねえ代物だなと実を持って感じますよ、僕は。
 
話を戻すと…。
生きていくためにはそれ相応のお金がいる。まして少子高齢化の時代はなおさらだ。
 
そして、ばあちゃん始め、ホームのお年寄りのみなさんもある程度…「若い人にすまないね」的な思いを抱いている。
 
こーゆーのは間違いで…本当はいくらお金がかかったとしても、人間は無条件で生きていけばいいんだと思う。その権利があると思う。
 
しかし現状、限られたお金の量と他の使い道を考えたときにお年寄りの当事者が「老い先短い私たちにこんなにお金を使って申し訳ない…」的なことを考えることは無理もない。
 
そして遺憾、極めて遺憾なれど…今の若者、現役世代の少なからずの人も…なんだかんだいって、相模原の事件を否定したとしてもなお…どこかにそういう感情を持っているのかもしれない。
 
だからこう「老害」とか「年金格差が―」とかそういう言説が世に溢れているのだと思う。全く、世知辛い話だ。
 
ただ一つ思うんだけど…。
多分ね、順調に行ったら、早死にせなんだ今は若い、我々はお年寄りになるし、お年寄りになったら…やっぱり俺らも「若い人申し訳ないねえ」と思うのかもしれない。
 
その時には今、夢中になって皆が言っておる、右翼だ、左翼だ、外国人だ、なんだかんだがーなんてそんなこと言ってられんだろうよ。
 
所詮、政治的な嗜好やら、主義やら、なんやらなど…若いころの、今のぜいたく品なのかも知れん。
 
年をとって自分の力で生きていくことも難しくなれば…そんな事後回しだ。
 
年を取らんとも…障害を負ったり、病気になったり、俺なんて気が弱いから少し指の先切ったくらいで…まぁ弱気になっちゃうと思う。
 
今のぜいたく品たる、政治の話やら嗜好やらで論争やら活動をたんまり今のうちにすべきか、或いは…年を取った時のためになるべく公正の人に迷惑をかけないような結意義な生き方(少しでも金貯めとくとか)を今のうちにすべきなのか…とか無駄なことを考えてしまう。
 
ああ…アホらしい。どこ行っても金カネカネカネカネ、金のことばかり。それも数億、数千万の話じゃねー…数十万円のそんな車を買うに満たない額で必死になっているのが俺やばあちゃんの人生で…。ああ、心底アホらしい。
 
おおむかしのお侍さんのように男子たるもの、国取りとか天下統一とか、でかいことやりたかったなあ。
 
というか、ダメもとでいまからやろうかなあ…。
 
もう、どうせ老いるのだから、今のうちに社会様やら、世間様にたんまり迷惑をかけてやろうかなあとも思うのだ。
 
俺に迷惑かけられた人は御愁傷様だ、俺だってよくよく考えたら訳のわからん迷惑やら、社会の上層*1の人に振り回されてるんやし、そのくらい「おあいこ」じゃねーかって気がする。
 
こんな空き家だらけの街で座して死を待つべきでなく、なんかこう、でかいことをやるんだ俺はと…思いつつ、とりあえず安く住める場を確保して半年以内に東京に出ようと思う。まぁ今日のところは眠るとしよう。はぁ。

*1:

若者は政治に関わるべきなのだろうか…。

若者は政治に関わるべきなのだろうか…。
難しい問いだと思う。
一概に「参加したほうがいい!」とは言えん。

ところで、俺はノンポリの人間(業界用語(笑))に「○○のデモに参加してよ」「○○の政治的な集会に一緒に行こうよ」って言う勧誘はしないんだ。

勧誘しようがしまいが、来る人間は来るし、来ない奴は来ねえし。

そもそも…。
政治ってのはさ、社会に不満があるからこそ…関わらざる負えないわけでそりゃあ不満のない社会ならそれに越したことはないよね…と思う。もっともそんなユートピアみたいな社会は「ない」と俺は思うのだが。

政治ってのはお金儲けとは違って、政治に関わったことで「どのくらい目標を達成したか」が見えずらい。
客観化したデータを出すのが難しい。

そもそも「政治」って客観視出来ないのね。
極論、人間ってのはある程度生まれ持った「タチ」ってのがある。価値観であれ、倫理観であれ。そして、根本的な価値観が露出してしまう。

例えばジェンダー格差縮小やマイノリティ支援、治安維持、土木工事…みんなお金がかかる。

これに番号付けて、どれが一番早く取り組むこと、どれが二番にとりくむことって「優先順位」「力の入れ方」を決めなきゃいけないわけで…。

そこで「なんでアレが一番じゃないの」みたいなそういうことをお互いどうしても思ってしまう。これが往々にして「人間性」の話にまでなる。だからお互いがお互いを怪物のように思ってしまうことが多々ある。

そこに客観性や公平性、お互いの妥協点を見出すことも難しい。

そして一番の問題は「人間性」の話になると…お互いが、こう…話し合う気持ちすら失うんだな。すると何処までが政治の話で、何処までが個人の「痴情のもつれ」なのか判別するのも難しくなる。

昔、過激派のみなさんが内ゲバをやったのも…政策論争の側面は無論あれど、内実は金銭問題や異性問題が影響していた事実もある。

昔は一緒の方向を向いて頑張っていたのに、あるいは一生に酒を飲みかわす仲だったのに…いつの間にか対立して、殴り合いの内ゲバやったり、訴訟合戦をやったり、お互いがお互いをメディアに告発したり…収拾がつかない。右でも左でも古今東西、あることだ。ヘタしたら、命狙われたり…とんでもない額とられたりするからなあ。

どんな主張でも絶対に火種くらいはあるんだ。こういうのを今の若い人は見ている。そして今も昔もそういうことがあることを知っている。

そういうのを直接は知らんとも何となく感じているから、若者の投票率やデモ参加率低かったりするのかなぁ…と考える。

後一応書いとくけど…。
今、この俺はいけしゃあしゃあと…公平なことを書いてる風を今装ってますが…。俺も客観的な人間じゃないからな。こういうこと言う奴は、こういうことを後回しにする奴は「許せねえ」っておもちまう部分がある。

ただな…。
韓国の今のデモ参加の若者しかり、三里塚の人しかり、被害者の会の人(拉致、カルト、犯罪など)の人が声上げる気持ちはよくわかる。

声上げないと、もう…どうにもならないから声上げているんだ。政治をしたいからじゃなくて、誰かに任せても良く変らないと知っているからこそ、自分が前に出て頑張って以降って思ってるんだと思う。

それこそさっき書いた、リスク覚悟でさ。人のために政治に関わるなんて考えない方がいい、やるなら自分のためした方がいい。勿論、自分自分じゃだれもついてこねーんだろうがよ

だからあなたも…こう、本当に苦しかったら立ち上がったほうがいいし、街頭に出たほうがいい。
ホント、座して死を待つよりもいいですよ。

俺には明確な政治主張はねえ(はず)。
少なくとも人前で言うほどのものはない。

でも…根本的な部分でなんか、違和感があるんだな。
それをぶつけたり、不器用ながら「行動」で、そして「公道」で、表現しているのが昨今の俺のやっていることなんだなあと思う。

俺も正直、怖いんだどね。やらざるおえん。だからやってる。
多分…だけどなあ…。仕方ないねえ自分のためにもなる(はず)だから。

河合つくしの天皇論

被災地の避難所で、陛下が被災者の老人の手を握っておられて、被災者が涙を流している…そんな写真をこの間見た。

俺はああいうことって良いことだなってしみじみ思う。

あの光景ってどういう意味合いを持つのかってずっと考えている。
ちょっと考えたことを書く。

もともと「天皇」という存在とは、近代以前の武士政権とは違ったベクトルで存在する権威(権威あれど、権力なし)であった。

中世の日本においては…例えば、武士や農民と違って土地に固定されていないで生活していた人々(漂泊民、職人、狩人、芸能民、拝み屋…)が生きていく際に頼る「権威」であったわけだ。

これは網野善彦堀田善衛が言及している。

特に堀田善衛は「定家明月記私抄」のなかで「元来天皇家というものが、これらの遊女、白拍子、舞人、猿楽、さらには武芸を事とする武人などの芸能民とともに、各種の職人、広い意味での宗教人など、いわば非農業民、それを別の言葉で言いかえるとして、『遊手浮食』の徒、『無縁の輩』などの『道々の輩』、すなわちこれら路上の遍歴民を統轄し保障をする存在であったことを確認しておきたい」と述べている。

そして…この二人の影響を強く受けた映画監督に宮崎駿がいる。

宮崎アニメの代表格である「もののけ姫」には、たたら場の工業民、狩猟民、唐傘連と名乗る傭兵集団が「てんちょう様の書きつけ」を大義名分として、シシ神を狩るシーンがある。

さて…。
端的に言うと俺は日本の歴史の中で最大の失敗は古来より権力の中枢から少し外れた場所に位置していた天皇家が、明治維新以後に「欧米型の皇帝」として祭り上げられてしまったことだと思う。

天皇家に軍服を着せて、国家の「機関」としての役割を負わせてしまったがために…色々な諸問題が起こってしまった。

本来、天皇は「国家的な権力」ではなく、寄る辺のない人が寄り添う権威だった。

今もそういう要素は残っている。
これが被災地の避難所における先程の光景につながるのだと思う。

俺はもう、日本国は天皇家を「国家の機関という役目」から解放すべきだと思う。

憲法で規定された「国民統合の象徴」ではなく、あくまで不文律の権威として尊重すべきだと思う。象徴天皇制憲法第一条は破棄。

そもそも国民なんて価値観がバラバラで当たり前で、天皇家を尊重する人もいれば…嫌いな人もいるのは当たり前で、嫌いな人に拝ませるのは可笑しい。

一人の人間を「国家の機関」として扱うのはこれはもう、暴力だと思う。終わりにすべきだ。

ただ、それでもなお…昔からの「寄るべないものの権威」としての天皇家を尊重したい多くの人たちの気持ちもある。

だから、そういう人たちで天皇家に「これからも宜しくお願いします」と伏して願うほかない。

そして、天皇家を尊重する人のなかでお金を出し合って、京都にお戻りいただいて、一切の国家権威的な公務から解放して差し上げて…ただひとえに神事と臣民との交流に専念して頂ければいいと思う。

俺はそう思うけどね。

最近の自分は凄く「健全」な人生を歩み始めていると思う。

最近の自分は凄く「健全」な人生を歩み始めていると思う。
つーのも、身の丈にあって、なおかつお財布もあまり痛まないことをして人生を楽しんでいるのだ。

地に足つかない思想にも、肩書だけは豪華な団体にも、変な壺も買っていない。リンチもしていない。これはなかなか凄い。

路上鍋をやったり、駅前でオカリナを吹いたり、新宿駅前でオカリナ吹いて、しかも誰も聞いてくれないといきなり、1000円の拡声器を持ち出して「金持ちと政治家は全部死ね」と小声で叫んだり…まぁそこそこ…楽しい。

何がいいって、今の自分はとりあえず誰かを巻き込めるわけだ。
鍋をやっても、一人で街宣ごっこをやった時も…
誰かしら参加したり、聞いてくれたり、持ち寄ってくれた人がいた。これはなかなか嬉しい。

もともと自分は10代後半をひきこもって過ごしていた。
学校に行けど、一言もしゃべれず、虐められても一言も反撃できず、嵐が早く通り過ぎてと耐えるポンコツな廃車みたいな感じだった。

人前では無口でも、帰りやどこかでは突然奇声を上げてみたり、公園で黙々と雑誌を大量に焼いたり、アリの巣に殺虫剤をまいて楽しんだり、もう…本当に一人で出来ちゃうくらーいことを極めていたのだ。

最近の自分はやっとエンジンが再稼働してきた感じがする。ポンコツなのは変わらないし、失敗も多いがでも前進している感じがするのでこれからも頑張る。

経歴詐称してもいいじゃねーか。

今と昔の一番の違いは「自分が自分でありすぎること」だと思う。

昔なんざ戸籍制度はいい加減だったし、役人もわいろ受け取ってた。監視カメラもマイナンバー制度もGPS職務経歴書も国籍もなかったか、いい加減だった。

だから一昔前ならば、違う街に行って名前も経歴も偽って生きていくことが出来た。

技術も未発達だったから、別の街に行って新しい自分として人生をやり直すことが出来た。

例えば、秩父事件の井上伝蔵は、北海道の北見に逃亡してその地で家族を作って65歳まで生きた。

吉村昭の小説「逃亡」のモデルとなった賀沢昇は、少年兵時代に兵舎から逃亡して、北海道のタコ部屋に潜入して永らえ,終戦後GHQに保護され、その後は市役所で定年まで勤めたと言う。

この手の話はいくらでもあった。

犯罪者から見ればこういうのは「逃げ得」であり、確かによくない面もあるけど…。

でも、新天地で腕一本あればやり直しが利く事実は、それを上回る「益」があったと思う。

今は違う。
今は生きていく中でいやおうなく、個人が特定される。

だから今の人は自分も含めて、今生きる場所にしがみつかないといけない。やり直しがきかない。…という固定観念に縛られている。

その結果、会社に見捨てられたくないから、死ぬまで働いて、過労で死んでしまう人がいる。

学校を中退したくないから(コースアウトとも)校内の虐めに耐えて、耐えた挙句…自殺しちゃう子がいる。

ひきこもりの人も家にしがみついた揚句、両親を殺したり(殺されたり)しちまうんだと思う。

本当は、個人が個人として明確になりすぎるのってよくない。

人間なんざ所詮、犬畜生と同じ動物じゃねーか。犬や鳥や虫けらは何処へでも行くじゃねーか。どうして人間だけはまるで植物のように根を張らなくては生きていけないのだろう。

今の時代は、個人がより個人として特定されるべく…マイナンバーやら、パスポートやら、生体認証やら…なんかそんな技術ばかり発展する。

物凄く息苦しい社会だ。我々の社会は知らず知らずのうちに自分の首を絞めているんじゃないかと思う。社会の自殺、人間の種としての自殺…そういうことをしているのではないかとすら思う。

嫌だいやだ…。
俺はもっと自由に行きたいものだ。その為にどうすればいいのか、常に考えている。

とりあえずはフリーなスペースをこの社会にどんどん作りたいものだ。小さなことだけど、来年は実家依存を卒業するぞ。