河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

今の日本は精神的な奴隷状態にある。

奴隷根性な戦後右派・保守。

保守や右派と言うのは基本、社会の王道にして本流の立場なわけです。

実際、この国の政権与党は保守政党自民党だ。そして巨大な資本やこの国に張り巡らされた保守系の地元人脈がバックに存在している。

そういう強いはずの人間(保守を自認する側)が何かと言うと「左翼に被害を受けた」を連呼するのはなぜなんだろうと考える。

例えば…自民党政権が沖縄で基地建設を強行している。
現状、基地反対派が劣勢に立たされているのは自明。

にも関わらず…。

わざわざ本土から基地賛成を掲げて、現地に乗り込んで…反対派ともみくちゃになった挙句「左翼に殴られた」と公言する保守系国会議員さん。

やら…。

あと…明らかに図体がでかく、声大きく…でかい車にでかいスピーカー積んだその手の右派の人間がだよ、極左反天皇制を掲げる100人ぽっちのデモ隊に対して「反日ヘイトスピーチをするな」と必死に怒鳴る光景…こういうのが巷にあふれている。

この手の話、裏を返せば「お前らは加害者で、俺たちは被害者なんだ」って話になると思う。

これ、絶対変な話でさ…「自分が被害者である」っていう表明は「あいつらより俺たちは『弱い』」ってゆー表明になると思う。

俺も数年前に虐められたことがあるからわかるけど、自分が誰かにいじめられているって自覚するのって、すげー屈辱だと思う。

そういうことを考えもせず、能天気に「僕は被害者です」って大音量で叫べる神経って凄いなあって思う。恥知らず。

少数派の極左、俺みたいなアナキストがそういう弱気なことを言うならまだわかる。

しかし、社会の本流である保守派、明らかに武を尊ぶことを公言する右翼が…「僕、被害者です」と言わんばかりの態度をとるって…これは本当に哀しすぎて、笑っちまう事態だよ。

あの光景を見ると、この国は未だに敗戦国で被占領国なんだろうなって思う。

言わば…「奴隷」なんろうなと思う。

主人に泣きつけば何とかなると思ってる、自分が保護される対象だと思ってる。だから無邪気に「俺は被害者、俺は弱い」ととれる発言を出来ちゃう。まして強面の人が。

右派全てが奴隷根性を持っているとは思わん。

俺は「月刊日本」を毎月読むし、片手くらいだけど俺と話してくれる右派の方の知り合いもいる。

その人らの話を聞くと、日本と言うのが米国の、国際資本の…もっと言えば「状況」の奴隷、「強いものに流される存在」であることを知って居られるんだなと思う。

でも多くの保守、右派、右翼はそういう認識には立ってないんだろうなと思う。

何が尊皇、何が大東亜解放…笑っちゃう。
精神的に隷属した三等国民の奴隷に何が出来るんだろう。

せいぜい、百人程度の少数派のデモ隊を虐めるくらいが関の山だろう。

大日本帝国は無茶苦茶な国であったけど、少なくとも奴隷ではなかった。

戦前の日本の態度って言うのはさ…
「我々は世界の加害者なれども、同胞たる日本人を喰わせるためなら、他の民族に出血を強要することも厭わない」

みたいなそういう、明らかに間違っているけども、奴隷根性はなかったと思う。石原莞爾の「世界最終戦争論」なんざそういうテーマだ。

「戦前に回帰」にする程度ならまだまし。
一億総消費者、総被害者のうらぶれたクソみたいな時代にあってしまうよ。

戦前の日本以下だ。我々日本人は日々、退化しているようだ。

そのうちサルになっちゃうんじゃないかな。

 

被害者根性ってのは身近に無根拠な「原因」を求める。
その結果が排外主義にもつながる。

今の日本はホントヤバい。
こういう人らは社会の本流にいることが信じられない。

どうしようって…。どうすれば世の中、本当の意味で誇りを取り戻せるんだろうか…って考え込んでしまう。

「政治に興味がある人はなぜ、安保と憲法と外交のことばかり語るのか」

なんでかって言うと…。

そーだな、これはもう、俺自身もそーゆー部分があるので、俺の自己紹介をした方がいいのかもしれない。

俺は一年ちょい地元の同じ老人ホームで働いている。
その中で自身の技術や段取りが向上したなと思う部分はあるにはあるけど…。一方で足元がふらついたり、むせこみが目立つ利用者さんの対応は未だかなり不十分だと思う。

具体的にいえばだ、他職員の居ない場所で、入浴介助をしたりする。その際、利用者さんが転ばないかとか風呂で溺れないか…とか、食事介助で誤嚥させないか…とかすげー思う。

毎日毎日「帰りの道で今日は平穏だった、今日はだいたい大丈夫だった」って胸をなでおろす。日々、凄い緊張する。不安ばかりだ。

ただな、概ね職場の人はよく教えてくれるし、残業も少ないし、休みも週2以上は取れている。

だからまあ…今のところは不満がない。いや、不満がないと言えばうそになる。

例えば…政府は「平均で月額1万円程度」は介護職の給料を上げると言っているが、俺にはその「成果」が反映されていない。恐らく事業所側が天引きをしている問題がある。その他にもまぁ…細かいことだけど色々ある。

本当はそーゆー不満を「当事者として訴えるべき」だと思う。

ただ、職場の人が不出来な俺に概ね優しく接してくれている以上…「文句」も言いづらい。恐らく…人の出入りが激しい中、なんとか危うい均衡の中で保たれている場の空気を乱したくないってのもある。

だからそう騒げない。

 

これは恐らくだけど、SEALDsや民青(共産党の事実上の青年部)や新左翼の若者も同じだと思う。

彼らも生活は苦しいと思う。でも彼らは彼らの事情があって…言いづらいんだろうなと勝手に想像する。

もっとも、彼らは勿論、時給賃上げのこととかある程度は言っている。

 

ただ、沖縄の基地問題、安保や憲法の話…に比べるとその意気はトーンダウンしているように見えてしまう。

昨年9月の安保法案の強行採決を巡る騒動では、多くの市民が国会前に集まった。

でも、こういう人たちって職場や学校の不条理(小さなことだけど)に何処まで者が言えるのか、自分を含めて考えてしまうことだ。

比べてはいけないかもしれないけど、米国のトランプ支持層、日本のネトウヨ…そして(なんとなく変えてくれるかも)なポピュリスト政治家(小池百合子橋下徹)を支持する人も似たようなもんなのかもなと思う。

身近な職場の問題は言いづらいけど、外交の問題でタカ派的なことを言ったり、国内の問題について…全部「移民と在日朝鮮人が悪い」と言うのは簡単だ。そして、酒の席で言っても角が立たない。

俺の知る範囲、サラリーマンが仕事帰りの飲み屋で「在日特権が―」とか管を巻く人もいるそうだ。

俺はそういうの、絶対によくないと思うが…なぜ「そういうことをこの人たちが言うのか」ってこと自体は、少し伝わってくる。

 

俺はどうすればいいのだろうか。

そもそも俺らが、あるいは左派、右派の市民が共同すれば本当に給料がよくなったり、年金が満足にもらえたり、老人ホームで働く人が増えたり、過疎化で寂れた街が復興するのだろうか…。

正直、その方策が俺には分からない。

 

正直、政治をかじっているみんなにもぶっちゃけ分かってねーと思う。

だから、まぁ身近な問題じゃない分「批判しやすいこと」憲法、安保、外交…あたりのことを批判してしまうのだろうか。

 

勿論ね、それは大事なことなんだろう。

でも…「もっと大事」なことがあると思う。

何処の世界でも時代でも、国が滅びたとしても、人の生活ってのはその後も続くんだ。

だから思うのが「なんでもっと大事なことに対してはトーンダウンしてしまうのか…。

なんだろう。自分自身そのような傾向があるから、本当につらいことだけど…

結局「弱さ」なんだろうなと思う。

 

だから、ちっぽけだけど何かしたい。

ただな、俺は頭が悪い。高校中退のFラン大をなんとか卒業した程度だ。

だから、再度言うけどこの社会にあまねく存在する社会問題を解決する方策なんて皆目見つからない。

どーしろともいいずらい。

 

だからせめて、社会に生きる人のことをもう少し知りたいと思っている。

そのため、深夜の繁華街で、公園に断熱シートや段ボールをひいて、路上鍋&語り場をやったり…駅前でハロウィンに乗じてお菓子を配って、通行する人と話して…こう、人間の機微を学ぼうとしているわけだ。

こんなことやっても意味があるのか…極めて疑わしいが、何もしないわけにもいかないのでこうしている。或いは抗している。つもり…。まあ自己満足なんだけどな。

右派アナキストからの憂国論。大東亜戦争、地方の衰退と移民と排外主義について。

「右派アナキストからの憂国論」

戦前の日本は膨れ上がる人口に物資が追い付かない貧しい国だった。特に東北ではたびたび餓死者が出た。

娘を遊里に売る農家や息子が炭鉱に出稼ぎに行って、生き埋めになるケースは枚挙に暇がなかったそうだ。

こういう悲惨な社会だったから、右からは昭和維新運動や農本主義、左からは労働運動が起こった。

これは、今の中国や東南アジア諸国と同じだ。

だから、日本は遠い未開の異国の地に移民を送った。国内で食えない人たちはアマゾンの奥地を開拓したり、オーストラリアの木曜島の海を潜って真珠貝を採ったりしていた。

遠い異国で日系移民は差別に負けずに富みを築き、現地社会の模範となっていった。

が…これも排日移民法など日系移民に対する差別的な施策を現地政府が取ったため、上手くいかなくなっていった。

その為、日本は遠い異国ではなく、日本の軍事勢力圏にある満洲や東南アジアに移民を、さらに移民を護るための軍隊を送り始めた

この事を指して、アジアに対する「日本の侵略」と豊かな国の左翼は言うけれど、俺は満洲事変、大東亜戦争は貧しい国がさらに貧しい地の富を収奪する哀しい戦争であり、過去の日本は「悪」だったと決めつけても、その本質は理解できないだろうと思う。

日本は加害者であったが、貧しさから抜け出すために異国の地を踏み台にするような、そういう趣旨の戦争だったことは考慮に入れるべきではないか。

アジア解放、アジアからの欧米勢力の追放という大義名分は一部は真実だっただろうが、実態は日本人は「自分たちが食べる為」に必死だった。だから美麗字句を叶えるその余力がなかった。

そして、当時の日本の教育はエリート層に特化した教育であったため、社会的な中下位層の日本人は「進出先」の住民を様々な形で酷使して、後々まで続く禍根と憎しみを生んだ。

残念ながら「他人を酷使してはいけない」という教育を今も昔も日本人は十分に受けていない。

そして現在、皮肉なことに70年前に日本が移民を送っていた先の国々…おもに中国や東南アジア、そして南米から多数の移民が日本に押し寄せている。

これに対して…

①「日本を護る」と抜かして、安易な差別、排外主義に走る低能共…

②後先考えず、移民を受け入れ、日本国内で安価に酷使して、その先のことを考えない無責任な経営者、政治家、官僚…

こういう類が本当に多い。これは看過できない問題だ。

俺は日本の少子化のレベルはもはや危険水位を超えたと思う。

そして、地方で急激に人口が減少したことで、いくつものゴーストタウンが出来てしまったこと、これは見るに堪えないと思う。

地方のコミュニティ、神事、人の集まり…全て死にかけている。老人介護すら移民受け入れをしないことには、出来ない国となってしまった。

現在の日本は「死にかけの大国」そのものであり、もはや一刻の猶予もない。

だからこそ、民間レベル、個人レベルから…移民…新しく日本に住んで下さる方に対しては最大限のサポートをするとともに、彼らが新しい日本社会の一員になって頂くようにしないとならない。

上から(資本家や政治家)の移民受け入れをすると、日本が巨大な工場とその工場に住む人の団地のような…そういう無機質な国になる。そして排外主義は言語道断だ。

「日本を真に護る」と言うのならば、下らない血統主義、伝統主義に対して決別を宣言して、外国からの移民も古くからの住民も一緒に幸せになるような社会、街、村、コミュニティを作らなくてはならない。

新しい日本像というのがもしあるとするならば、それは「移民受け入れ国」として国境を開放して、人口減少に歯止めをかけてコミュニティを復活した姿。これだと思うんだけどな。

とりまとめのないはなし

個別具体的な状況において、ある事象を正義や悪かを論じるのはこれはまあ…難しい、難しいの一言なんだ。

ただなあ。
原則的になれば、やっぱり飯食えない人に飯を食わす、なるべくたくさんの人と今日この日を乗り越える…そういうもんが「正義」だと思う。

俺は思うのだけど…例えばRPGのゲームみたいな状況があったとする。

ある村に悪い代官がいる。村には重税をかけ、村民の年頃の娘を玩具にしたり、子どもをもてあそんで殺したり…もうそんなテンプレみたいな悪い代官がいたとする。

その悪に対して、村の青年が「これは許せねえ」とお代官様を襲撃して復讐して血祭りにあげて…こういうのは正しいと思う。まるで佐倉宗吾やペロフスカヤの気分だな(笑)。

あとのことは(出来るか難しいけど)自分の村は自分たちで運営するんだって、こう…みんなで話あって明るい良い村を作ればいい。

そういう意味合いにおいては「暴力」とか、肯定されるべきだと思う。すげー前近代的な発想だけど。

まぁ…前も書いたけど…そーゆーつえー悪に対する「暴力」に対して、俺はある程度の共感を覚える。

しかしね、今の「ルール違反はいけない」とゆー大衆の正義感はつえー悪じゃなくて、例えば不法入国のコンビニでバイトしてるよーな外国人や「母子家庭でお金がないです」とNHKに出演したけど、実は1000円のランチを食べていてどーのこーの…みたいな女子校生とか、なんかもうそういう人らに向けられる言葉になってると思う。

んなもん、どーでもいいってか、目くじら立てる対象が「違うだろう」と思う。

でも全員とは言わないけど、この社会のある程度の人はそーゆーもんになっちゃってるわけで…。

そーだから、こー…僕はさ、職場帰りとかにふとそーゆーことを思い出しちゃってさ、家に続く階段の途中につい座り込んで、ありの巣に枝を突っ込んで遊んで、それも一時間位座り込んで…近所の人に不振がられたりしちゃうんだよな。

よ―するに、これと言った解決策ってのも自分の中にあまりなくて、ただただ、胸の中にこぶし大くらいのびりびりしたものを感じて座り込んでいるだけ。

まぁ最近は階段だけじゃなくて、駅前とか繁華街でも座り込んでいるんですけどね。これはまぁうーん、みたいな取りまとめのない話です。

なつかしい運動?森田童子を聞いて思うこと。

森田童子とか井上陽水とか、あの頃の学生運動に対して「懐かしい思い出だった」「あの頃の君は今何をしているんだろう」みてーな歌を歌っている。

要するに「運動」を過ぎ去った青春、「昔は純粋だったからヤンチャ知ったよー」みたいに捉えていて、世間もそういう歌を歓迎して…みたいなムードってのがこの国にはありました。

60、70年代を懐かしむ的なノリでね。

まぁ…今の運動とやらって在特とか今のトランプみたいなゲスが「あいつはズルをしているから叩け」みたいなもんばかりだから、あんなのは「思い出」にすらなれないと思うわけです。

だからまだ「思い出」として美化されている分、昔の運動ってやつは…よかったのかなって思う。

もっとも60年代以降、世界はこうますます混迷を深め、日本でも貧しい人は貧しいままだったわけで…だから本質的には「運動」をやめて…自分は自分の人生として生きるってのは原理原則に従えば可笑しいのかなあと思う。

そいえば、村上春樹の「ノルウェイの森」でヒロインが「革命革命いうけど、あの人たち数年後はちゃんと会社に入って、娘に凝った名前を付けるのよ…みたいなことを言っていたシーンがあったな。

でもなあ…
そうは言っても…まぁ人の「一生なんてそんなもん」かもしれないな。

年をとって、色々と背負うモノが増えてくると、今まで持っていた社会正義なんて脇に置きたくなるのが人の情の常ってもんなのかも。何とも言えんがなあ。

俺はさ、なんつーか自分は自分でありたいから…できるだけ続けていきたいなって思う。

だから肩肘張らず、今も昔も別に正義とか、運動とかじゃなくてもう別の形がほしい。

そーだなー「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」みたいな、つまりこの詩で言えば答える人であり、問う人になりたいなあとも。

だからこう、みんなで鍋を囲もうとか、あと囲んだ経験のない人もこれるような、そーいうムード、雰囲気、伝手、きっかけ…みたいなの作れたら楽しいなーって思うんだけどもな。

しかし昔のフォークソングはいいな、あの時代を知らない俺まで懐かしくなっちまうよ。

寄らば大樹…としての天皇像。

俺が赤松啓介網野善彦宮崎学猪野健治の本に関心があるのか。

なんでかってゆーと…。
昔の教科書っぽい「江戸時代は武士が農民をいじめていました」
司馬遼太郎の「坂の上の雲」みたいな「明治の国民はみんな近代化に向けて汗を流しました(日本人の美徳万歳)」的なあーいう単一な見方(自由主義史観ってゆーんだっけ?)が嫌いだからなんだよな。

司馬遼太郎に関しては司馬遼太郎が悪いんじゃなくて、悪い読み方した奴が悪いんだろうけど。

ともかく、歴史ってのは「単一化」出来ないと思う。

でも、今の保守系(笑)の人たちって「正義と悪、綺麗と汚い、強者と弱者」という「単一な構図」で歴史を見ようとする。勧善懲悪的だ。

上記(赤松さんら)は…単一的なモノの見方をしないし、見方が庶民よりだから好きだ。

いわゆる網野史観も好きだ。

これはうちの祖父が長崎五島列島の出身とゆーのもあるんだろうけど…。。

例えば中世の日本列島に住む人は「倭寇」として海外と頻繁に行き来していた。

そして古来より日本と南中国、ヒマラヤは「照葉樹林文化」として繋がっていたらしい。

歴史にはそーいう見方があるんだと網野さんは唱えていて…それを聞いて俺は気持ちがすーって楽になった感じがある。

ああ、人間ってのは昔から「国境」や海を越えた広い世界で生きてるんだなあ…的な。

猪野健治の「テキ屋社会主義」という本には明治大正ごろの近代化の悪い面が描かれている。

ただ、そういう厳しい社会でも弱者は手を取り合ったり、反抗したり、上手にお上(政府)をいなしたりと…たくましく、最大限ずる賢く生きるために色々頑張ってたんだなって感想になる。

こういうふうに考えると歴史書も読んでてなかなか楽しくなるものだ。

結局、二択の考え方、勧善懲悪、あるいはピラミッド的な社会構造の理解をする「保守派はいかに愚か」かって話なんだよな。

保守派だけじゃなく、極左階級闘争的な史観もくだらねえと思うけども…。

そして「天皇」について。

網野史観に影響を受けた宮崎駿の「もののけ姫」には「天朝様の書きつけ」が出てくる。

天朝様の権威が、ジゴ坊(という怪集団)や山奥の半独立国家に近い「たたら集団」を守護していることを意味するわけです。

それは明治以後、ピラミッドの象徴として軍服を着せられた天皇、国民統合の象徴と言う「造られた価値観」の上の存在じゃなくて、もっとこう怪しい魅力があって、そして「社会のはぐれ者」の「寄らば大樹」としての「天皇像」なのだと思う。

俺は後者の方が魅力的だと思う。

まぁともかく…単一的、勧善懲悪的なつまんねー歴史の見方をするくらいならば…上記の人の本でも読んで「たくましく自由な先人達」に思いをはせたほうが楽しいと思うんだけどな。俺は。

赤松啓介「夜這いの民俗学」とチバレイの怨念と…みたいな感じ。

赤松啓介「夜這いの民俗学」は面白かった。
歴史を「ウラ」から見るって言う感じが。

昼間の世界は建前(理性)の世界。本質(本音)は夜の世界にある。

昔から、それは変らないんだなと…感じた。

村の「共同体」を都市の文明が壊したという視点も斬新。

都市文明の模倣者になろうとした明治政府は、建前としての男女別学(別業)を推進。同時に税収アップと民衆の不満解消のため、セックスの商業化を目指した(赤線)。

それにより夜這い文化は衰退して、ひいては古来よりの「村の共同体」の崩壊につながった…。そんなことが書いてあった。

そーゆー意味では「古き良き日本」とやらを壊したのは明治政府とその後裔のせいなのかもしれない。

明治後の「上からのナショナリズム」に意識が向きがちな保守だの右翼には、土俗的…まさに日本の「土の文化」とでも言うべき物事について、この本でも読んで勉強してほしいと思う。この本いいぞ、エロくて。

エロい本でべんきょーすんだ、それりゃあ楽しいぞ。

愛国者(きりっ)と言う人の文章は硬かったり、誰かを敵視して、揚げ足取ることに終始している感じがして俺は嫌いだな。

具体的に言うと倉山満とか、竹田恒泰とかな。アレはひどいなあ…。

チバレイレベルまでいくとなかなかこう「左翼への怨念」ってのがさ、文面からわらわらと立ち上っていて「一種の文学(みたいなの)」に昇華している(一応、ほめことば)から面白いんだけど。

介護の仕事は奥深い

介護の仕事は奥深いなあって。
同じ94歳(例えば)でも色んな人がいるし(当たり前)
接し方もいろいろあるし、だいたい外れるのだけど…たまに向こうが笑ってくれると嬉しい。もう少し、仕事していきたい。

ただ、腰がヤバい。後…経管栄養の人は体にあざが残りやすい。

自分は一年近く仕事したから、日々の段取りみたいなものはまぁ去年に比べれば(比べれば…だけど)頭に入りやすくなったけど、肝心なこうきめ細かいことが中々難しい。だからこう、平気かなあみたいな。当たり前だけど、怪我させないため…ってほんと難しい。

「自分なりに気を使う」じゃだめだからな。本当にそういう意味では苦しいかも。苦しいのは俺じゃなくて、利用者なんだけどな。

暴力はやめましょう。

基本的に暴力ってのはいけなくて、「いけないってのはよ―するにしてはいけない」

ってことでなぜしてはいけないのかってゆーと…。

心に傷になるから。傷ってか、あいつに殴られた、あいつに○○されたみたいなそーゆーのって…一生残るし…なんつーの、心に欠損が出来ちゃうんだよな。

そしてその欠損…あるいは心のヒビから、まぁ上手くいかないと変なモノが流れてきちゃうんだよな。

だから、人に暴力をふるうことはやめませう。特にね、立場が強い奴が弱い奴にふるうのはみてられんな。

逆はさ、やりかえすってのは少しわかる。俺は「暴力反対」とはゆーけどさ、弱い奴の強い奴へのカウンターの一発に対して「あれもこれも同じ暴力です」なんてゆーつもりはさらさらない。

でもまぁそれ以外はさ、やめましょう。
今日、そーゆーことを思わせられるきっかけがあったので。
こんなことも書いてみた。

レジスタンスになりたい(よく)

米山隆一、黒岩たかひろ、鷲尾英一郎。この三人が新潟を仕切るのかな?
そうだとしたらもうこの先どうなるか想像できるな...新潟民主主義人民共和国の誕生だな( ゚Д゚)
どうやってレジスタンス活動すればいいんだろう。沖縄に注目集めて置いて実は新潟に色々入り込んでいたのかな?
https://twitter.com/tenkuu0067/status/787634670246559745

楽しい人生観だよな。
俺版「声に出して読みたいツイート」の一つに推薦する。

いやはや、アニメのアイコンで「レジスタンス活動をする」とかスパイがどうとか、たまんないなあ。まだまだ日本は平和です。

いやはや、政治的(笑)立場とやらは随分違うのだけど、この「レジスタンスしたい」って気持ちは実に分かるなー。

したいもん俺も。でも1日1時間のレジスタンス(笑)をした後は家に帰っておいしいもの食べて、お風呂入って、温かい布団で寝たいなあ。もち外向きには「俺は頑張ってるぜ―」ってもちろんツイートすんだ。

いやはや(笑)。こういうお手軽なことをやってみたい人生だった。最近はさ、お手軽なことすら俺はもうやりたくないんだ。なんつーの、人のためとか、国のためとか、レジスタンス?とか「もううんざり」なんだよな。

自分で外の手のこと言っていてさ、書いてさ、こうさ、夜中寝るときに「あの文章消さなきゃ//」/ってなるんだもん。

まぁ俺には自信がないだけかも…。

それはさておき、
その意味ではこのひとのほーが若干、若干…「公益性」ってのがある人格なのかも。まぁ色々ととち狂った御仁だがな。実に。

僕の小規模な失敗…出会い系アプリと課金と…

僕の小規模な失敗」。下ネタからの…って話。
 
割とまぁ自分はだらしない男なので何かにびみょーにハマりやすい。
 
まぁ俺は酒もたばこもギャンブルもやらない人間ですがね、ただ具体的に言うと少しは出会い系アプリにハマっていた(笑)
 
さらにゆーと15は年上の女性に出会えちゃってまあみたいなそーゆー(笑)。けして全く出会えないわけじゃないのねw
 
ただアレは例外で基本は出会えないわけで、でも「いつかは出会えるんじゃないか」とゆー希望ってのが捨てきれず…それで課金。
 
課金って理性狂っちゃうから…「弁当1000円」が高いと思いつつ、出会い系アプリの課金の1000円は簡単に出せると。この金銭感覚、いけませんねえ(爆)
 
みたいなことがあり、まぁ「せいぜい2万ほど」だけど、これをまぁ8割はほぼどぶに捨てた後、正気に返って(多分)今に至る。
 
何が言いたいかとゆーと、課金とゆーか、なんとゆーか…あの手の事に金使わないほーがいいよってことだ。
 
どうせ使うならば目に見える範囲で使うべきだし…とかゆってみる。
 
思うのだけど、目に見える範囲、手の届くこと、が全てじゃないかなって思う。
 
あともうひとつは「こそこそ」はしないという決めごと。
 
そーゆーことを考えたとき、人前に出ようと思った。
 
人前に出ている間は、まぁ少なくとも「かもしれない」じゃなくて、「俺が今やるんだ」って実感がある。
 
そう思ったから、こうオカリナを練習しようと思ったり(笑)
路上で飲み会、語り場、鍋wやってみたりしたわけです。
 
外に出ている限りは、人の目に意図的に晒されるからな。その結果、結果的に自分を最低限、律せられる。受動的なのか能動的なのかわからんこの変な処世術…。
 
まぁ諸々始めた要因ってこんなところにw
 
結局、イデオロギーも性欲も課金もまぁ基本的になんつーか、身の程を越えちゃうとロクなことがないわけで…じゃあどうすればいいかって言うと「一人でも出来ることを、人前でやる」「そして一人でも何かをまねて始めてみる」に限るんじゃないかと。
 
福満しげゆきの漫画の題名を借りるならば「僕の小規模な失敗」から思ったことなのです。
 

「アナキストと窮民革命論と #路上飲み会 とオルタナティブ運動と右翼となんちゃらと。」 

アナキスト窮民革命論と路上飲み会とオルタナティブ運動と右翼となんちゃらと。」
 
みたいなことを書いてみる…。あくまで俺が「認識している」範疇のことを紹介しようと思う。
 
マルクス主義のスローガンは「万国の労働者よ団結せよ」。
革命の主体たりえる者は「労働者階級」とされてきた。
 
ここで言う労働者は工場や炭鉱で働く労働者で、このタイプの労働者は長期雇用系の人が多く、往々にして組織化(組合勧誘)しやすい。「組織化された労働者」ってやつ。
 
が…社会にはこのタイプ以外の人もいる。
 
例えば日雇労働者、路上生活者、ひきこもり、風俗関係者、路上のアーティスト(原宿とかで詩集を売ってる系の)…。
 
これらの人をマルクスは「ルンペンプロレタリアート」と定義して、「移ろいやすく、組織化できず、ゆえに革命の主体にはなれない奴ら」とまぁ蔑んでいたわけだ。
 
ところが、こういう人こそ「社会変革の主体」になりうるとゆー考え方も存在した。
 
ミハイル・バクーニンらを始めとしたアナキスト、一国社会主義ではなく、世界革命を目指す新左翼が唱えた「窮民革命論」を唱えた人たち。
 
さて、日本においては60年代以降の高度成長期に「組織化された労働者」がある程度豊かになった現実がある。
 
そしてその労働者のもつ1票を背景に共産党社会党といったいわば「既成左翼」は党を拡大、温存していた。資本主義国家でそれなりにうまく立ち回れる左翼像というのがここに誕生したわけだ。それは…まぁ「多数」から見れば悪いことではないと思う。
 
が…日本社会が高度成長期に入っても、その恩恵を受けることが出来ない人たちがいた。
 
山谷や寿町で暮らす日雇労働者は社会が豊かになっても、雇用の調整弁として使われ続けるばかり。ドヤで生活できず、路上生活をせざる負えなくなったりもする。
 
その日雇労働者のような立場のような人に目を向けたのが、いわゆる新左翼の一派。
 
マルクスの言う「労働者」の定義から外れた人に目を向けようっていうのが、いわゆる窮民革命論
 
で、こういう考え方に影響を受けつつ「自分たちだって、似たような立場じゃないか」と思った若者が90年代後半から、00年代にかけて現れた。
 
フリーター、ひきこもり…その手を自認する若者は「組織化された労働者」ではない。
 
その自認から出発した人がこんなことを始めた。
 
例えば…(wiki引用↓)
「普通の人のように働かない(働けない)」、「恋愛しない(できない)」、「家族をもたない(もてない)」といった者たちが、その「だめ」とされる有り様を否定的に捉えるのではなくそのような社会のプレッシャーを問題とし、自由に生きていこうとして誕生したオルタナティブな「生き方模索集団」。また、労働と消費を奨励するような資本主義の価値観に対して「それよりも楽しいこと、創造的なことは沢山ある」とアンチテーゼとオルタナティブを唱えている。
 
この手のことを始めた「だめ連」(俺は中央線系左翼と呼んでる)の人たち。
 
そしてだめ連系の人たちの「創造的なこと」とやらの一つが「誰かと楽しく出会おう」とゆーことだったと思う。
 
この出会う手段として「路上飲み会」がある。
 
この「路上飲み会」のスタイルが色々な人を経由して、俺に伝わって、だからやってるわけで…なので左翼の人の影響を俺も受けてるのかなあって。
 
ただそれだけでもないけども。
 
俺が今、理想としているのは「革命」ではないない。具体的に言うと「一揆」や「蜂起」なんだよな。
 
俺は革命ってのは結局、政治運動にすぎないと言う確信がある。政治運動なんざ、権力闘争にすぎない。
 
しかし蜂起や一揆は「もう黙ってられない」「生きさせろ」という弱者の叫び、いうならば「情念」が引き起こす事件だ。
 
そう俺は認識してるわけ。
 
例えば…近代日本で行われた「蜂起」の代表例が秩父事件
 
この秩父事件は資本主義が、秩父の農村共同体をぶち壊そうとした時に立ち上がった秩父の人たちが行った「蜂起」だ。
 
この一揆は当時最先端の思想である自由主義の影響を受けたという側面もあったんだろうけど、同時に古い共同体を守ろうという要素もあったと思う。現に秩父では名主や商屋の出の人がイニシアチブを取った一面もあった。
 
農村共同体、古い社会的なつながりが行きすぎた資本主義を拒む事例、ロシアだとナロード二キ運動があった。
 
日本版ナロードニキ運動が秩父事件だったと言えるのではないだろうか。
 
そして秩父事件は右か左かといったら、左の要素も無論多いが、決起集合地が神社であったり、農村共同体を守ろうと言う意味では「右」の要素もあったと思う。
 
そいえば「226事件」も昭和恐慌で疲弊した東北の農民有志の蜂起を青年将校率いる連隊が護衛して、東京のお偉いさんのもとまで「送ろう」という計画があったと言う。前史の515事件でも茨城の農民決起隊が立ちあがっているし。
 
515事件の農民決起隊に深くかかわった思想家橘孝三郎はこんなことを言っている。
 
世の中は物質文明に走り、都会中心の為め農村が疲弊して居るのであるから、農民が立つて其中心地なる帝都を襲撃するのだと云ふことを世人に知らせる必要があり、夫れには不夜城を誇る帝都を二、三時間暗黒にし、帝都の人心を混乱状態に陥れるのが一番効果的で而も損害が少ないと考へました。
 
これらも「情念の世界」といえるのではないだろうか?
 
一揆には「情念」ってのがある。この情念ってのは日本の「右」がもちうる唯一のよい要素だとも思う。
 
そして情念の発露こそ、ある意味…人間が人間らしい瞬間だと思う。
 
俺が路上で騒ぐ深夜ってのはさ、割と昼間より人が人らしいってか、人がさ、昼間みたいに組織化して働かずにうろうろ歩きまわる時間。情念の時間と解してもいい。
 
この情念の時間こそ「何か」が起こるんじゃないか。そして俺の行動がいつか「何か」に火をつけるんじゃないだろうか。
 
そーゆー意味ではすげー期待があんのね。ここにさ、多くの人がよからぬと思ったとしても俺は、少なくとも俺は一隅の火種を見出すことが出来ている。
 
だからこそ、ってのもあるかもしれないな。
無論、楽しいからってのが一番だけどさ。
 
結局、アレだ…理屈付けねーと何もできねーのな俺、また長い文章を書いてしまった。はぁ…。
 

「アナキストと窮民革命論と #路上飲み会 とオルタナティブ運動と右翼となんちゃらと。」 

アナキスト窮民革命論と路上飲み会とオルタナティブ運動と右翼となんちゃらと。」

みたいなことを書いてみる…。あくまで俺が「認識している」範疇のことを紹介しようと思う。

マルクス主義のスローガンは「万国の労働者よ団結せよ」。
革命の主体たりえる者は「労働者階級」とされてきた。

ここで言う労働者は工場や炭鉱で働く労働者で、このタイプの労働者は長期雇用系の人が多く、往々にして組織化(組合勧誘)しやすい。「組織化された労働者」ってやつ。

が…社会にはこのタイプ以外の人もいる。

例えば日雇労働者、路上生活者、ひきこもり、風俗関係者、路上のアーティスト(原宿とかで詩集を売ってる系の)…。

これらの人をマルクスは「ルンペンプロレタリアート」と定義して、「移ろいやすく、組織化できず、ゆえに革命の主体にはなれない奴ら」とまぁ蔑んでいたわけだ。

ところが、こういう人こそ「社会変革の主体」になりうるとゆー考え方も存在した。

ミハイル・バクーニンらを始めとしたアナキスト、一国社会主義ではなく、世界革命を目指す新左翼が唱えた「窮民革命論」を唱えた人たち。

さて、日本においては60年代以降の高度成長期に「組織化された労働者」がある程度豊かになった現実がある。

そしてその労働者のもつ1票を背景に共産党社会党といったいわば「既成左翼」は党を拡大、温存していた。資本主義国家でそれなりにうまく立ち回れる左翼像というのがここに誕生したわけだ。それは…まぁ「多数」から見れば悪いことではないと思う。

が…日本社会が高度成長期に入っても、その恩恵を受けることが出来ない人たちがいた。

山谷や寿町で暮らす日雇労働者は社会が豊かになっても、雇用の調整弁として使われ続けるばかり。ドヤで生活できず、路上生活をせざる負えなくなったりもする。

その日雇労働者のような立場のような人に目を向けたのが、いわゆる新左翼の一派。

マルクスの言う「労働者」の定義から外れた人に目を向けようっていうのが、いわゆる窮民革命論

で、こういう考え方に影響を受けつつ「自分たちだって、似たような立場じゃないか」と思った若者が90年代後半から、00年代にかけて現れた。

フリーター、ひきこもり…その手を自認する若者は「組織化された労働者」ではない。

その自認から出発した人がこんなことを始めた。

例えば…(wiki引用↓)
「普通の人のように働かない(働けない)」、「恋愛しない(できない)」、「家族をもたない(もてない)」といった者たちが、その「だめ」とされる有り様を否定的に捉えるのではなくそのような社会のプレッシャーを問題とし、自由に生きていこうとして誕生したオルタナティブな「生き方模索集団」。また、労働と消費を奨励するような資本主義の価値観に対して「それよりも楽しいこと、創造的なことは沢山ある」とアンチテーゼとオルタナティブを唱えている。

この手のことを始めた「だめ連」(俺は中央線系左翼と呼んでる)の人たち。

そしてだめ連系の人たちの「創造的なこと」とやらの一つが「誰かと楽しく出会おう」とゆーことだったと思う。

この出会う手段として「路上飲み会」がある。

この「路上飲み会」のスタイルが色々な人を経由して、俺に伝わって、だからやってるわけで…なので左翼の人の影響を俺も受けてるのかなあって。

ただそれだけでもないけども。

俺が今、理想としているのは「革命」でも「維新」でもない。具体的に言うと「一揆」や「蜂起」なんだよな。

例えば近代日本で行われた「蜂起」の代表例が秩父事件

この秩父事件は資本主義が、秩父の農村共同体をぶち壊そうとした時に立ち上がった秩父の人たちが行った「蜂起」だ。

この一揆は当時最先端の思想である自由主義の影響を受けたという側面もあったんだろうけど、同時に古い共同体を守ろうという要素もあったと思う。現に秩父では名主や商屋の出の人がイニシアチブを取った一面もあった。

農村共同体、古い社会的なつながりが行きすぎた資本主義を拒む事例、ロシアだとナロード二キ運動があった。

日本版ナロードニキ運動が秩父事件だったと言えるのではないだろうか。

そして秩父事件は右か左かといったら、左の要素も無論多いが、決起集合地が神社であったり、農村共同体を守ろうと言う意味では「右」の要素もあったと思う。

そして俺は革命や維新ってのが結局、政治運動にすぎないと言う確信がある。政治運動なんざ、権力闘争にすぎない。

しかし一揆には「情念」ってのがある。この情念ってのは日本の「右」がもちうる唯一のよい要素だとも思う。

そして情念の発露こそ、ある意味…人間が人間らしい瞬間だと思う。

俺が路上で騒ぐ深夜ってのはさ、割と昼間より人が人らしいってか、人がさ、昼間みたいに組織化して働かずにうろうろ歩きまわる時間。情念の時間と解してもいい。

この情念の時間こそ「何か」が起こるんじゃないか。そして俺の行動がいつか「何か」に火をつけるんじゃないだろうか。

そーゆー意味ではすげー期待があんのね。ここにさ、多くの人がよからぬと思ったとしても俺は、少なくとも俺は一隅の火種を見出すことが出来ている。

だからこそ、ってのもあるかもしれないな。
無論、楽しいからってのが一番だけどさ。

結局、アレだ…理屈付けねーと何もできねーのな俺、また長い文章を書いてしまった。はぁ…。

俺は暴力を肯定する。

俺は暴力を肯定する。
弱いものが強い者に対して行う暴力を肯定する。

「表立った争いのない平和」ってのはさ、ぱっと見は綺麗なモノだけれど、その実態は強いモノが弱いものを支配して、押さえつけているだけだと思う。

何度も言うけど、偽りの平和を否定する。その為ならば暴力ですら肯定する。

ただ、暴力は正義でもなければ、神聖なことでもないと思う。

仕方ない、必要だからせざる負えないって…ただそれだけの話で。

だからキメ顔で「(法の支配による)平和」「正義」だの「神聖」だの言う人にはぞっとする。

ともかく、俺は弱者として強者に暴力をふるう時に来ているのだろうかな。暴力ってのは一体何だろうか、理不尽さとはなんだろうか…そーゆーことを考えつつ眠る。自爆テロをしたいわけじゃないからね。

幸せになるための暴力って話をしているわけです。

孤独と「自分と世界との境界線」について。

練馬の大家殺害、女は家賃滞納し複数回の督促受ける - BIGLOBEニュース http://news.biglobe.ne.jp/domes…/…/tbs_161008_7873229733.htm
家賃滞納中の24歳の女が、大家を刺殺した事件。
詳しいことは分かんないが、しょうじき、この女に対して「どうしてこうなんったんだろう」みたいなことは思う。
何だろうなあ…。
この女の周りに真っ当な人がいたら「殺す」なんて道を選ばず、もっとこう家賃のこととか相談したり、なんなり出来たんじゃねーかなあ。
同情ではない。
これもまぁわかんねー話だけど…。周りが見えなくなることもある。
これはまぁ前に書いたことだけど。
自分は高校のころ、全く人とコミュニケーションがとれず…入学3カ月目にしてロッカーが凹まされ、その後、貝のように投稿して2年の終わりに中退した。
あのころの自分は「高校で孤立している」「人と話せない」「周りが明るいのに俺だけ…」みたいな意識に支配されたし、そうなっちゃうと、いじめだなんだ以前に…もう思考が固まっちゃう。
たかが高校って当時は思えないのな。世界は広いってのは理屈では分かってても高校ってのが当時の自分のほぼすべての世界だもん。
高校で孤立している以上に、孤独と言うのはさ、自分と世界との境界線みたいのを浮き出させる。
そうなるとさ、周りの目と言うのが分からなくなる。
そもそも「周り」と言うモノがない。だから自分が「個」で世界に対峙している感覚になる。
そういうふうになっちゃうとさ「アレをすると人から嫌われるからやめよう」みたいなそーゆーブレーキもなくなってもうー大変ですよ。
俺も公園でたき火と称して、色々と夜な夜な燃やしていたしなあ。
一歩間違えたら、何してたかやら。幸い、俺はどうもならずに大学を無事卒業して23になったけど。
俺が言いたいのはさ、狂気と言うか、やっぱり「往っちゃう人」の気持ちが分からなくはないってこと。
この家賃滞納女がどういう人かってのは分からないけど。同情とも共感とも違う「あー」みたいなそういう思いはある。
今もさ、なんだかんだ「自分と世界との境界線」みたいなことは考える。
ただ、出来る限り俺は普通の人間でいたいけどな。結局、普通に生きて、普通に結婚して子供を産むのが正しいとゆーか、まぁいい人生だと思う。
自分こそが正義だ、自分こそが…って我を強調してさ、突っ張って生きていくことが自分には多分出来ない。
だから、介護の仕事をやって、まぁ1年続けてきた。
もっとも配置換えで、皆ガチモードってやつで、俺は明らかについていけてないので…正直わかんないけどな(ぼやかして書くけど)
とにかく、人の中で生きるってのを考えたい。
まぁ俺も変わった人間だと我ながらも思う。
変ったってか、はみ出しちゃう部分は多々ある。今はこう、はみ出さないよ―に、はみださないよーにって頑張ってるつもりなのだが。さてこれからどうなるのだろうか、とゆーか「どうする」つもりなのだろうか