河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

朱子学ってこういうもの・・・?自分なりの解釈をかいてみた。

自分の言葉で、難しい思想の意味を読み解く。

    朱子学陽明学

朱子学の考えを簡単にかいつまんで描く。

朱子学の世界観には、万物の動きをつかさどる「理」と万物を構成する要素「気」という2つの要素があるという(理気二元論)

そして「気」は絶えず動きめぐるものであると考えられている。その「気」を制御する(自動車のハンドルのような存在)が「理」である。

 

この考えには実践論がある。

それによると、人間は本来善良なものである(性善説)が、現実の存在()においては正しいことも間違ったこともしてしまう迷い迷う存在だ(迷いは悪いことと考えられている)。迷いの気持ちは「情」。

 

迷わず、常に善とありたいならば、自らを善に導くために、たえず自省しなくてはならない。

ここでいう「自省」とは、自己を管理するために、この世界の在り様とこの世界で生きる自らの身の振り方を学ぶことである。それが「理」と呼ばれるものだ。

それを学び続けると、いつかそのものは「理」に立ち返りさらにその「理」の体現者となれる。そうすればいつか「聖人」になることができる。

 

これが自分の理解している朱子学の大義っていうか基礎みたいなものだ。よーするに人は勉強すればするほど賢くなり、すごく賢くなれば、人間としてもえらくなれるという考えみたいだ。

 

そして、人は学ぶためには師につかなくてはならない。師は当然「理」の体現者であるはず(少なくとも自分よりかは…)つまり偉いのだ。そして師が務める学校も偉いし、その学校を作ったお国も偉い…。という考えみたいだ。よーするに権威主義的な考えである。

 

日本の江戸時代にこの考え方が、幕府公認の元で下々まで周知されていたそうだが(著名な幕府お抱え学者には、新井白石がいる…)なるほど、確かにっていう感じである。

 

みんながこの考えを受け入れれば、師は偉いもので、師を雇っている幕府はもっと偉いものだから逆らおうなんていう輩は現れやしないだろう。これほどうまく明確に権力が自己を正当化する考えはないだろうと思う。

しかもだ、勉強すればするほど偉くなれるのならば、最初は底辺層でも体制の中で出世ができることを意味しているわけで、つまり底辺層の不満をそらすことのできる考えでもある。実際中国の「明王朝」の時代には、底辺層でも受けることのできた「科挙(公務員試験的なもの)にこの考えの要旨が出題されていたともいうじゃないか。

 

まぁなんだ。

権力が自己正当化に利用できる権威主義的な考え方が「朱子学」なのだと私は理解している。これが正しい理解化は微妙だろう。なにか間違い、齟齬を見つけられた方おりましたら是非教えてほしい。私浅学なものでありますが、ちょっと背伸びした次第なので…。

 

()は「陽明学」について書くつもりだ。そのうち更新する。