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河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

フラニーとゾーイーを読んだ≪本の感想①≫

J・D・サリンジャーフラニーとゾーイー」は面白い小説。

感想…というか、雑文垂れ流します…。

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーちゃんは主人公はライ麦のホールデン君のように大人なんて嘘つきだーとか、エゴがどうとかいっちゃう痛い女子大学生なのです。

それで、自分は聖性が大事だとか言って、イエス様が
どうとか、ロシア巡礼の書という宗教書持ち出したり
して、自分は精神の聖性を重視するとかいっちゃう。
つまり彼女は純粋な聖なる存在が大好きってタイプの潔癖症なの。
ただ、奇麗な人って遠く眺めるからこそ見るから奇麗だって
思えるところってあって…案外近くから
見るとしわとかしみとかが見えて気になるじゃない?
だから、彼女のあこがれの人物って本に出てくる人とかシーモアとか
自分がよく知らなかったりもう会えない人だけ。
よく知らない人には勝手な理想を抱けるけど
現実に知っている人には、その人が仮に立派な人だとしても
奇麗じゃないあれこれをしっちゃうから、あの人は世間で評価されている
けど、本当はああいう汚い部分があるとか言っちゃうのです。

ただ、もう一人の主人公のゾーイーはもうちょっと大人だから
そういうことが分かる。
そして彼女は口では聖なるものの存在を
ほめたたえているくせに、同時に奇麗じゃない者を認めない
フラニーの狭い器量を批判する。それは矛盾じゃないかと…?
具体的にいうと、フラニーに対してゾーイーが…
≪もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアハイジのじいさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。≫
というシーンね。つまり彼女は聖性なものを本当の意味(ありのままイエス)で尊重しているのではなく
こうであってほしいという自分の理想像を投影しているに過ぎないと…まぁそういうことです。
それはそれで、フラニー自身が批判するエゴなんだと…ゾーイーは言う。

お風呂のシーンとかああいうメンドーなシーンも多いけど…
全体を見れば、特に最後のシーンを熱心に読めば案外
面白いと思う。
特に最後に出てくる母親が運んでくるチキンスープこそ
愛の象徴だみたいな台詞には感涙できますよ。
ああ・・・本当の愛ってこういうことだったんだって。