読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

いじめっ子、いじめられっ子。追記あり

①自分もまぁいじめられっ子だった。
その経験を踏まえた意見を書く。

自分の場合、継続的にいじめを受けるというのは誰かにどういういじめを受けたから辛かったです、とは思わない・。
殴られたから痛かったです、物を獲られたから辛かったです、というのはもちろんある。
しかしそんなことはすんだこと、忘れてしまえば済むし嫌だったら逃げればいいんだ。問題はそういうことではない。

簡単にいうと、普通の神経なら一発殴られたら悔しいだろう。しかしいじめられっこはそうは思わないということ。
1発殴られたのが悔しいではなく、いつもは10発殴られるのを今日は5発しか殴られなかった、だから今日は、幸運だと思う。
毎日いじめられるのが当たり前となると、今日はいじめられなかったという事さえ希少なことに思えてしまう。すごく幸せに感じる。
結果、今日いじめられなかったこと、殴られなかったこと、或いはいつもより殴られる回数が少なかったことに対して、いじめっ子に感謝さえしたくなる。
今日は回数を少なくしてもらえてうれしかったです、ありがとうございますと。

いじめられっ子はそういう考え方になってしまうのだ。卑屈な心、奴隷根性。
そういうの神経って、仮にいじめられなくなっても抜けないもの。
だから人を継続的に何度も何度も傷を抉るように苛めてはいけないのだ。
そういうことをされた人間は、初めのうちは抵抗できてもいつか抵抗できなくなる。
本当の幸せではなく、とりあえず今不幸にならないためには…
つまり、殴られない環境なり、自分がそういう力を得るためにはどうしたらいいかという
根源的な問いを自らに向けることができなくなる。

代わりに今日はどうすれば、普段は10発殴られているところをじゃあ、3発で済ませてもらえるか…
そういう考え方に陥ってしまうのだ。短絡的だと笑うか、笑えばいい。確かにその通りだ。

③はっきりいっていじめっ子など、本当は偉くも対して強くもない人間なのだと思う。
本当に立派な人間というのは、自分のペースなり誇りを持っている人間だ。
自分が何かをしたいという強い意志をもっている人間は、自分の内なる声を大事にできる。
自分の中に価値観という大事なものさしを持っている。
だから何かに出くわしても、頑張なり、耐えるなり、あるいは楽しめるのだ。
そういう人間が立派なんだ。そういう人間は他者の目などいちいち気にしない。
そういう人間は、周りの価値観(場の空気)なぞに流されなどしない、自分の中にある行動基準、
すなわち確かな価値観に従って、生きていけるからだ。

いじめっ子というのは、周りに合しているだけだ。
場の空気が自らに不利にならないためには、自分以外のちょうどいい誰かを犠牲にしているだけだ。
そうして自分を守っているだけだ。こういう類の人間は価値基準が自らの外にあるから、クズなんだ。
ただクズなだけでなく、周りにどうあわせれば自分が不利にならないかという点ばかり考えるから
仮に集団が暴走しても(いじめとかカルトとか)止めない。むしろ周りに従っていれば事なかれだとしか思わない。

そういう考え方をする人間が少数ならばいい。しかしその集団の多数をそういう人間が占めたときは絶望だ。
もう、誰も止めない。その結果がいじめを生む、集団的な差別を生む。いきつくとこまで行ってしまう。

④ついでに言うと、いじめっ子は狭い価値観の中でしか生きられない。
彼らはその自分の属する集団のことは考えているのかもしれない。
だから、一見するとコミュニケーション能力に秀でているように見えたりもする。
しかしそれは間違いだ。彼らのコミュニケーション能力など狭い集団でしか機能しないのだから。
それがわからない人間がいっぱいいるから、上っ面の人間ばかり増えるのだ。

社会は本来広いものだ。そう社会は入れ子構造だ。自分の属する狭い集団も広い社会の一部でしかない。

しかし、いじめっ子はその小さな集団の場の空気を崩さないようにするためにはどうすればいいか、以上のことが考えられない。
だから、その集団を離れたときに使い物にならないのだ。
まぁねその集団を離れても似たような雰囲気の集団に入ればいいという考え方もある。
実際、そういう風に世の中は成り立っているかもしれない。しかし個人的にはそういうのはいやだ。

本当に立派な人間ならば、価値観というのは自分の中でも養えるし
それでも足りない場合は広い世界の様々な価値観に触れてそれを自分とするため生かそうとできるはずだ。

身近な場の空気に合わせることだけが、正しいことなのかそういうことだって
広い世界の様々な価値観を学べばおのずとわかるはずだと思う。
自分の物差しを持っているのだから。けして悪いことにはならないはずだ。

⑤広い価値観を持つというのが、この社会でもっとも必要とされることである。
だから、勉強をしなくてはならないし、本を読まなくてはならないのだ。
そして。広い世界の様々な価値観に触れるためには、その価値観を尊重しなくてはならない。
尊重の心を忘れてしまったら、相手は自分などにその価値観の一端を開いてもらえなくなるからだ。

だから例えば、外国とか或いはマイノリティの人たちの価値観も大事にしなくてはならないと思う。
マイノリティの人達の持つ価値観もまた、広い世界の様々な価値観の一つなのだから。

そういう努力を放棄するような真似はいけない。
その真似を意味不明な旧弊な考え方で肯定しようとするのもいけないのだ。
それは、世界を知ろうとしないということだと思う。ただ、事なかれにものを考えて楽をしたいだけだ。
そして、彼らが免罪符にするそういう旧弊な考え方こそ「差別」というものなのだ。
ところで、今ネットの世界には「チョン」池沼」だのそういう間違った言葉が広まっている。
ああいう言葉を使う人間は意図的に自分の視野を狭めている器量の狭い人間なのである。あのような人間になってはいけない。
あれは恥なのだ。差別はいけない。いじめもいけない。これは世の中の真理ってことでOKもらいたいなー。

 

追記

ってのね…これ昔のブログに書いたの。今ねここにさいUPする。

 

今になっては少し、意見が違うね。

嫌われっこ世にはばかるっていうじゃん。あれがもしかしたら正しいのかもって最近思うべ…。

すなわち、いじめられっ子のほうが引きこもっちゃって、世間の広い見識を得ることが出来ない。一方いじめっ子は「いじめをしていた事実」をけろっと忘れて….案外、普通の大人になっていくのさみたいな…。まぁダメだね。一言言うなら、いじめられたとかいじめたとかさっさと忘れたほうがいいのかもしれん。

あんまし「反省」とかしおらしいこと言うのは辞めたほうがいいかも。これが最近のぐずぐず君の意見です。