河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

「ネトウヨ」な人に伝えたい私の理想の右翼論 上

ここでは、私の考える「右翼」の理想ってのを書いてみたいと思う。特にネトウヨさんに伝えたいなぁ。

概略としては…まず「右翼と左翼の違い」「天皇陛下はなぜ尊いのか」までをこの記事に書く。

 

そして「右翼と王道」「排外主義はなぜいけないか」「まとめ・本の紹介」を次の記事に書く。

 

こーいう感じで書いていきたい。まぁ話半分くらいにだるーく読んでいただきたいなぁーとか思う。

 

1章 「右翼と左翼の違い」

 

まず左翼の人がどういう考えを持っているのかを書いてみる。

まぁ極端な説明だけど、左翼の人は理屈っぽいとよくいうらしい。なぜ理屈っぽいのか?

そして左翼の人には「経典」みたいのがある。例えばマルクスの「資本論」とか。こーいう本がなぜ、左翼の経典なのだろうか?。これらを説明していきたい。

それはそもそもマルクスが生きていた時代。そのころの権力者は「自分たちがなぜ権力を握っていたのか」ってことがうまく説明できなくなっていたのである。

 

これに関しては権力を握る側は昔から「私たちは神様にこの地と民を治めるように言われたから」(王権神授説)とか、そーいうことを言って自分たち一般大衆を支配をすることに正当性を与えようとしていた。

 

しかしマルクスが生きていた19世紀にはこの理屈にもそろそろヒビが入っていたわけだ。

産業革命、世界の交通革命…。資本は増大する一方で、富を持つものと持たない者の格差が広まっていく。一方で交通技術の進歩により、世界はどんどん狭くなっていく。こうした情勢下では「「私たちは神様にこの地と民を治めるように言われたから」という理屈はだんだん正当性を失っていく。

 

そうした時に持たざる者(労働者階級)は、今までの「王様」、新しい支配階級である「資本家」に対して「あなた方が世の中を支配する道理はない、あなた方に従うつもりもない」と自己主張していくようになった。そしてその自己主張をするために権力とは何かということを左翼の人は考え始めた。その結果、左翼の理論家であるマルクスは「唯物論」を昇華させて持論を展開し始めた。

 

この「唯物論」ってのは…神様がどうとか、そーいう目に見えないものは「なしで、話の前提におかない」そして「目に見えるもの」「理屈で説明がつくもの」のみを使って権力とは何かということを語る理屈である。

 

左翼の人たちは大衆に「王様や資本家はなぜ偉かったのか」ということを説いた。わかりやすく言うと『王様が語る「私たちは神様にこの地と民を治めるように言われたから」なんていうのはペテンだし、意味不明だ。ほんとのところ、王様や資本家は労働者の稼いだお金を不当に搾取しているから偉いだけだ。つまり彼らは詐欺師だ。詐欺をする輩は打倒さなくてはならない。』みたいなことを言って、扇動をしたわけである。

 

さて、マルクス資本論なり、左翼の人の経典の言いたいことの大略を書くと…。なぜ「王様や資本家は今までえばれたのか」「これからの時代には王様や資本家は偉い存在ではない、権力を持つのは私たち(労働者階級)だ」「王様や資本家から権力を奪取するためにはどうしたらいいか」ってことである。

 

左翼の人とはどういう人たちなのかまとめると「神がかり的な理屈を持って世の中を支配する人たちを敵視する人」「そのために大衆である労働者階級の人たちと協力して、旧支配者を打ち破りたい人」あるいは「こーいう理屈を信じている人」ということになるかな。そして左翼の人たちがなぜ理屈っぽいかというと「旧支配者から権力を奪取する理由を考える必要性に常にかられている」から。そしてマルクス資本論とか「左翼の人たちの経典」はそのマニュアル本みたいなものだと思っていればいい。と思う。

 

 

次は右翼の人とはどんな考えを持っているのかを書いてみる。

 

これは非常に難しい問題だ。例えば右翼思想の一端を担った大川周明

「右翼とは左翼に対する言葉であって、左翼とは言うまでもなく社会主義共産主義のことであるその社会主義共産主義と最も極端に対立しているのは資本主義である。したがって左翼に対する右翼というならば、資本家または財閥こそ右翼と呼ばれるべきものだ(『不二』第9巻6号)

と言っている。一方でこれまた右翼思想の大家として知られる津久井龍雄は

 

右翼の正体を知る者は多くない。それは過去においてもそうであったが、現在はなおさらそうである。右翼の精神は本来祖国を愛する精神であり、祖国の歴 史と伝統を尊び、その誇りに生きようという精神である。『右翼』

と語っている。まぁ右翼とは同じ右翼の理論家の中でも議論が分かれる存在であり、その定義は非常に難しい。

 

ただしいて言うならば「あるがままの美しい日本を愛すること」ってことになると思う。

 

今の状態の「あるがまま」の日本を愛すること…。 これなのかなと私は思う。ただ「あるがまま」ってのは難しい。

例えば資本家によって「日本のあるがまま」を崩されたと信じた人が大正の終わりから昭和初期にかけてたくさんいた。そしてこれこそが今の日本であると主張する人もいた。

そしてこのように考えた人が起こしたのが「昭和維新」である。昭和維新の中でやたらと資本家や資本家と結んだ政治家が殺されたのは「日本に極端な資本主義が導入されたことにより、日本の美しいあるがまま」を壊されてしまった、だから資本家を取り除くことによって、「あるがまま」の美しい日本を取り戻す…こう考えた人たちが多かったからである。

 

「日本のあるがまま」には、資本家はいるのかいないのか…って問題は非常に複雑で今を持っても結論は出ていない。しかし「天皇の存在」を否定する右翼はいない。それはなぜか…。これはまぁ2章に譲る。

 

 

最後に、わかりやすいたとえ話として…。人間は本能として「見えないものは怖いもの」ってのがある。特に人間の目では見えない「暗闇」を題材としたおとぎ話は数多く存在する。

 

例えば、夜の山には天狗が出たり、深い沼には河童が出たり、旧校舎のトイレにはトイレの花子さんが出たり…そんな感じだ。これらは、暗闇を怖がる人間が本能的に察した危険を、言葉でなんとか説明しようとした挙句、暗闇の中に「怖いモノ」を生み出した例の一つだと私は思う。

 

「暗闇は怖い」とは言わずに「暗闇の中には○○がいるから怖い」といったほうが説得力もあるかもしれないし。

 例えば、小さな子どもに「夜の山の中には怖い天狗がいる」とでもいえば、子どもは山に一人で近づかなくなる。

 

こーいうおとぎ話とは、「夜の山の中には一人で行かない」とかそーいう教訓めいたところから始まると同時に、昔の、それこそ電気もガスもない夜が真っ暗だった時代には「暗闇」ってのは文字通りの真っ暗な場所だったんだなぁと思わせる。暗闇とは昔の人から見たら本当に怖い存在だったのだろうなぁと思わせるものでありますね。

 

そして、これを右翼と左翼の話に持ち込むと…。左翼の人たちは「暗闇のなかには何かいるのか、いないのかを真剣に考えちゃうタイプ」一方で、右翼の人たちは「暗闇の中には何かいると考えたうえで、それらを恐れ敬い近づかないタイプ」とでも考えていればいいと思う。

 

「真剣に考えること」にメリットがあるのか、あるいは「なんとなく「いる」と仮定して現実的な危険を回避するべきなのか…。」どっちが一概に正しいかってのはわかりにくいと思う。さて2章では暗闇を照らす太陽の話をする。

 

 

 2章 「天皇陛下はなぜ尊いのか」

 

これの答えは「天皇陛下は日本人の太陽のような存在だから」の一言になるかなぁと思う。少し説明する。

天皇=太陽ってのは突飛な考え方ではない。例えば皇室の祖先にあたる神様は天照大神(アマテラス)という。アマがテラスというくらいなのだから当然「太陽を神格化した神様」である。

 

先ほど、電気もない昔の人々は暗闇を恐れていたと書いた。そしてその暗闇を打ち破るモノはどんな存在なのかと言ったら「太陽」であることは明らかだと思う。

 

「太陽」は暗闇を照らして、温かく大地にそそぐ存在だ。

 

飽食の時代となった現代はなかなか感じないものの、かつての日本では異常気象(雨の日、曇りの日ばかり)によって農作物が取れず飢饉が発生するなどはざらだったらしい。冷害も多かったと聞く。暗いこと(暗闇)は時には命に係わる一大事であったのだ。

 

そんな時代、太陽は農作物を育て、冷たい空気を暖める…まさに救いの存在であったと想像することは容易であろう。

 

日本人は大昔から、太陽への崇敬と感謝の念を持っていた。そして、その「お日様に出てほしい、大地を照らしてほしい」と必死に願う人々と太陽の仲立ち人を務めた存在が天皇家の祖先である。そしてその関係は今も壊れてはいない。

 

私たち日本人が、例えば一般参賀行幸の車列で天皇陛下のお姿を拝したときに、自然と「万歳」をしてしまう理由はなんだろうか。私は遠い祖先が、曇りが続いたがやっと太陽をお拝むことができた瞬間に万歳をしたであろう血の記憶というか、そういう願いを現在の日本人も受け継いでいるからであろうと思う。そして、それは自分の生命が古来よりずっと受け継がれているという感動につながるモノだと思う。

 

そしてこれこそ「日ノ本」の国である日本のあり方なのだと思う。このあたりは「王様が庶民を支配するという構図が強かった諸国」とは違う点だとも考える。