河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

「市民」なんて嫌いだ。

 

 

当たり前のように使われる「市民」って用語。

 

最近、物事を考えるたびにわからない。

 

たとえば「横浜市」の「民」という意味での市民ならばわかる。

 

この場合、横浜市に住む「住民」として市や政治家に要望、要求する。

 

住民運動だな。これならば納得できる。「民」の所属がはっきりしているからね。

 

 

俺がよくわからないのはそれ以外の市民だ。「市民社会」とか「市民運動(明らかな政治性を伴ったもの」の市民だ。

 

 

この場合の「市民」ってどこにいるんだろう?

 

俺はこの「市民」が「普通の人」の言いかえのように使われているような気がして最近、嫌悪感がある。

 

まず所属がはっきりしていない。

 

たとえば「日本国民」なら日本の国籍を持っている人なのだなとわかる。

 

外国籍の市民という言い方もわかる。川崎には外国籍市民の人たちのための代表会議というのがあるらしいけど、いい制度だと思う。

 

ちょっと古いけど、無産階級、労働者階級…という言い方もわかる。

 

皇国臣民という言い方はかなりの政治性が見てとらえるけど、まあそれを名乗る人がどういう社会を理想にしているかはわかる。

 

 

東京都青少年の健全な育成に関する条例」が話題となった時にアニメや漫画が好きなヲタクとして、これに反対した人がいた。あるいは「ダンス営業規制」の見直しのために活動していた、ダンスとかクラブの愛好家の人たちがいた。これもまあなぜ反対しているかよくわかる。

 

自らを宗教者として定義づける人、あるいは右翼として…左翼として定義付ける人…。これもわかる。所属がはっきりしているからね

 

 

でも「市民」はそうじゃない。市民と言われても…それだけじゃ所属はわからない。その人が持つ思想や嗜好についてもわからない。

 

 

在特会という団体がある。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」というらしい。この団体は色々と名称がおかしい。まず「在日特権」ってなにか?非常にあいまいでいい加減で偏見に満ち溢れたふざけた名称といえよう。

 

そして「市民の会」という名称。これも俺にしてみたら嫌悪感がある。

 

 

なんかなあ。こういう場合で「市民」とか意味が分からん。在特会の人は「日本人は在日朝鮮人の悪行に怒っている、とか「日本の良識ある市民は在日特権を許さない」とかいう。

 

在特会の皆さんは、自分たちを指し示す際に固有名詞をあえて使わず、所属をぼかして「市民」と使うんだな。

 

 

それで…ここからが本題。俺も日本国籍を持った日本人だ。自分に良識があるかはわからないけれど(笑)、とりあえず前科とかはないし…いやまあ、前科あろうとあるまいとそこまで非常に人様に恥じることをしていないとは思う。

 

俺はそういう人間のつもりだ。

 

じゃあ「俺が在日の人を許さないとか特権を許さないか」と思っているか?というとそうじゃないのだな。

 

「日本人」や「市民」にもいろいろいる。俺みたいなやつもいる。でも在特会の人はそういうのをぼかすのだ。それでああいう卑劣なことをする。要するにそのぼかすあたりが不誠実だ。

 

なぜ自らを「固有名詞」で表現しないのか?自分たちの所属や思想や嗜好を表にだせないのか?

 

このあたり…俺に言わせれば「ダサいなあ」と。

 

 その辺の落ち着いた住民運動とかで、市民にひとくくりにされること、それに関しては構わない。別にひとくくりにされようと俺は傷つかない。

 

でもさ、こういうヘイトスピーチをするような人にひとまとめにされるのは嫌だね。俺までそういうことをしている人間にならされた感じがして。俺の尊厳を侵害されている気までする。

 

こういう問題は右派左派関係なくある問題だと思う。

 

俺はたとえば、倒閣運動とヘイトスピーチは当たり前だけど、全然違うものだと思う。

 

前者は政治運動だ。政治運動である以上は…人間として認められる行動だと思う。それは最近の俺は理解できるようになったと思う。

 

でもそれでも、自称市民運動の人たちが言う「あべしね」とかやめてほしかったと思う。もちろん「あべしね」と特定の民族をあげつらう行為…この二つを一緒にするのはよくないとは深刻度がまるで違うこともわかる。

 

ただ…それでもさ。あべちゃんだけじゃなく、いろいろなことに「死ね」を言っちゃう人、あるいは「キモヲタきもい」とかもやめてほしいなあ。

 

あなた達に「キモい」と言われる覚えはないと思う。それはいじめだ。

 

俺だってそういうことを言ったことがある。だからこれは少し前の自分に向けた言葉でもあるのだけれどね。反省反省…。

 

どちらにしろだ。

所属もその人の趣味や主義も反映されないあいまいな言葉である「市民」が広がる社会。

 

俺は、そういう言葉を多用する「社会運動」とか「自称市民運動家」の人は好きじゃない。はっきり言って嫌いである。

 

右にしろ左にしろ、そういう団体に属しているにもかかわらず「市民運動」を強調するのも好きじゃない。

 

別にそれが悪いと言っているわけじゃない。時にはいろんな意味で必要かもしれないね。

ただ、自分とは相容れないなと思う。できれば「市民」以外の言葉を持って自らを表現してほしいと思うだけ。俺をあいまいな存在である「市民」に入れるなと。

 

最後に…。

戦前の日本。大正から昭和初期にかけてわりとリベラルな…たとえば消費者運動、女性解放運動、労働問題…。こういうのに取り組んだ人の中で少なからずあの戦争に加担した人たちが多かった事実を忘れてはならない。

 

当時の保守的な政治家や軍人・官僚も戦争を引き起こした人たちだったと思う。

 

ただ、それを止めないで、それどころか国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで「私たちこそ真の国民だ。真の国民としての労働者の権利、女性の権利を獲得するのだ…」。みたいな人たちが少なからずいたことは覚えておくべきだと思う

 

戦争は一部のファシストが起こすわけじゃない。ファシストとかアンチファシストとかそういう問題じゃない。

 

右派左派、社会の階級関係なしに、みんなが「よい国民」になろうとしたからそうなったのだと思う。「よい国民競争」の果てだ。

 

20世紀が「よい国民」の時代だったとしたら、21世紀は「よい市民」の時代かもしれないなあとぼんやり思う。