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河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

いよいよ右翼としての自任が強くなっている河合です。

いよいよ右翼としての自任が強くなっている河合です。
 
端的な話として俺のことを誰かに勝手に「お前は主権者だ!」「お前は国民だ!」「お前は下部構造だ!」…って決めつけられたくない。勝手に俺を「定義」するなよ的な怒りがある。
 
人様を勝手に定義して、「あれはあーだ」みたいな決めつけって個々人の実際、本質が見えてないように感じる。空論…空回りした考えだ。
 
左派もナショナリストも、人を定義するのがお好きなようだ。その点では同じにみえる。
 
「彼ら」は人を「定義」して、状況を分析してこそ…彼らは彼らの目標とする社会を作ろうとしているんだろうな。その「理屈」は正直、少しはわからなくはないけど、俺とは「合わない」気がする。
 
俺は俺って意識が自分にはある。だから、俺は「定義」せず、「個人は個人として」扱いたい。
 
だから、自分は「右翼」を自称したい。右翼は本来「情緒的な世界観」を大事にする人らのことのはずだ。
 
本来の右翼とは、水戸の橘孝三郎権藤成卿のような社稷を重んじる考え方であったはずだ。これは言わば「地の思想」と言える。
 
社稷が重んじられた社会では、農作物、農作物を生産する人々、そしてその人々が祀る農業神への崇敬の念があふれているはず。
 
それはその当たりの祠を見ればわかる。日本中だいたいどこに行っても神社や祠が大切に祀られている。特に農村地域にはそれが顕著だ。こういう人の崇敬心みたいなものを第一に考えずにして、なんだろうか。
 
その概念は非常に「見える」「地に足付いた」思想だと思う。地域的であり、実践的であり、人の体温が伝わる概念であると思う。
 
戦後右翼の大半が陥った反共(ここ最近は「排外」)の一本槍な活動方針は、理念先行で世の中の機微が見えていないとゆーいみでは空回りした偽の活動、偽の思想なのだと思う。
 
また、民主主義、民意っていう考え方もぶっちゃけ怪しい。ポピュリズムは「風」で大きく変動するあやふやな概念だ。それに左右される「民主主義」には懐疑的にならざるを得ない。
 
特に言いたいことはナショナリストに対して。
「たかが国籍」で個人を判断するなよ…的な怒りがある。生まれより、生まれた後に何をなしたかだろう。
 
地の思想に回帰し、地に足ついた大人にならないとダメだと思う。
これ、中々難しいけど(汗
 
今だと…そうだな、コミュニティ運動、マイルドヤンキー的な町おこしに学ばないといけないと思う。それが「地に足」付いた思想だと思う。
 
「個」では悪性資本主義には勝てない。
 
資本主義ってのはたとえが大げさか。
簡単にいえば「個」では働いている際…愚痴を言い合える相手もいないし、病気をしても助け合える仲間もいない。
 
なにより「個」では生きている張り合いってのがない。少なくとも俺はたまに「寂しがり屋」になる時があるのだ。
 
個ではなく、個の集合体たる「集まり」にならないとこの社会で生き残っていけないと思う。
 
この辺りを考えた際、俺は右翼たる自任をいよいよ強くするわけです。
 
今、僅かながら関わっている諸々も全部、上記に通じることだと信じたいし、今後ますますそれをやって行きたい。
 
正直、なにもしない、出来ないのはつらい。傍観は生きるのがますますつらくなるだけだ。