河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

相模原の障害者施設襲撃の犯人植松に対して、俺が感じた寂しさについて。

相模原の植松と「寂しさ」と「意思の疎通」について。

相模原障害者施設殺傷事件

相模原の例の事件で犯人の植松は「意思の疎通ができない人間が、生きてても意味がない」として19人の障害者を殺害している。

これは9月27日の爆笑問題カーボーイの太田さんの話を聞いて思ったのだけど…

 

 

www.youtube.com

ラジオ音源は(15分~27分)を参照してね。
いいこと言ってるので少し引用する。

太田光:コミュニケーションですよね。それで、僕は「意思の疎通ができないのはどっちだ?」って思ってるわけ。施設にいる人たちは、たしかに普通の言葉を喋れないかもしれない。色んな表現ができないかもしれない。

田中裕二:うん。

太田光:でも、彼らの周りには、彼らを大切に思って、彼らが生きていてくれなかったら困るって人、たくさんいて。彼らが「ウーッ」って言ったときに、「これは何を表現してるんだろうか」って、一生懸命受け止めようとしてる。つまり、小林秀雄の言うところの感受性ですよね。

田中裕二:うん。

太田光:それは、学問ではない感受性なんですよ。それを受け止めようとする人がいっぱいいる。それで、そこに伝わるものがある。つまり、コミュニケーションがとれないのは、あの犯人の方なんですよ。アイツは、色んなことを発信してるかもしれないけど、発信して「さぁ、受け取れ」って態度なんですよ。

田中裕二:うん。

太田光:勘違いしがちなのは、表現っていうのは、表現の豊かさや表現のみが大切だって思うけど、そうじゃないんです。本当に大切なのは、受け取る側の感受性なんです。受け取る側に感受性を持つ人が、どれだけその人の周りにいるかってことなんです。」

 

と言ってて…あー分かるなーと。いいこと言ってるなあーと。

仕事柄、自分も認知症や胃ろうの人と接する。

確かにまぁ言語的で表面的なコミュニケーションのキャッチボールは出来ないかもしれない。

でも、「一人ひとり人柄は違うな」とおむつ替えの時に思ったりする。

そりゃ当り前の話で、その辺の認知症の人とひとまとめに「○○さん」と思う感じってのは大事だと思う。

障害や認知症で「言語」を獲得できなかったり、失っても、「言語」になる以前の「叫び」みたいなものってはそりゃああるわなと。

そう思った時に…

「意思の疎通ができない人間が、生きてても意味がない」と言った植松の認識というか、言ってることは表面的で薄い話、そして感性だなと思う。

変に効率ぶって、その結果、大事なものをみてない感じ。

これも太田さんが言っていたことだけれど…

太田光:彼のことを分かろうとする人、誰もいなかったじゃないですか。あんだけ体中に入れ墨いれて表現しましたよね。ツイッターとかやって。でも、彼の言葉に耳を傾けようとする人は、1人もいなかった。1人2人いたかもしれないけど、諦めた。「コイツ、何言ってんのか」って思われて。

何なんだろうなあって。

植松も植松で「表現」したかったんだなと思う。入れ墨を入れるって相当なことだし。

でも彼は結局、表現が下手だったんだろうな。
ヘタだから、周りに伝わらず、孤立して…小人閉居して不善をなす
ってやつなんだろうな。

なんつーか、同情はしないが「寂しい」と思う。

俺はじゃあー植松と知り合いだったとして、あいつが入れ墨を入れはじめたり、報じられてるような過激なことを言い始めたとしたら、まぁ離れるわな。

だから、植松から離れた奴のせいにするつもりも無論ない。

ただ、植松のあの不器用さみたいな…そういう部分に関しては同情と言うか、寂しいなって思う。

植松だけじゃないけどな。

「鶴橋大虐殺」発言の女子中学生(当時)も左右の界隈で「カネや異性」やだとやり合ってる奴らについても思う。

周りにこう、恵まれなかったんだろうなって。だから、表現がヘタと言うか「変」なんだろうな。その結果、孤立する。

その当たりのなんと言うか…プロセスは分かる部分もある。

植松の話はわからないけど、植松の辿ったストーリーはちょっと分かる部分が自分にもある。

そういうのは感じる。

その寂しさってのはどこにも行きつかない感情だけど、でもまぁかきたくなったから書く。

あいつもせっかく相模原ってゆー都会に出そうな場に住んでいるんだから、なんかな、いくらでも誰かに会おうと言うきっかけはあったと思う。持家でカネだってなかったわけじゃない。

でも植松は小人閉居ってのを選んだわけで、そこは彼の怠惰だったのかなって。まぁほんとのことはわかんないけど。