河合つくし通信

取りまとめのないブログです…。一応細く長く続けていく予定。

人生と「サガ」

遊牧民の名乗りは「私はなんとかの孫、なんとかの子、なんとか地域のなんとか太郎」と行くわけでさ。
自分とは何者か?と言うのが「血と土」の説明なのだ。

日本でも「襲名」とゆ文化が伝統芸能にあるし、あるいはなんとか流派みたいな「流」を示したりする。

中上健次とゆ作家はすごくて、彼の「紀州サーガ」の作品群を読み解くと、そこに彼のアイデンティティーが見られる。中上は熊野の「路地」の生まれ。

紀州サーガの後期の作品「日輪の翼」は紀州熊野の「路地」が開発により、なくなった為に行き場(生きる場)をなくした老婆を主人公の青年がトラックに乗せて、日本中の熊野のような霊場に赴き、最後にトラックは東京の天使さまの身元にたどり着く……!

中上は自分たちは、最初から最後まで「熊野の路地のもの」だと作中である種の諦観、そしてその諦観にこそ自分らの「生活があった」と作品で示したのだと思う。

それはある種の限界でもあり、その限界にこそ自分(あるいは中上の生まれ育った「路地」の生まれのものたち)と世界の隔てる差、あるいは自らの輪郭、あるいは「内と外」あるいは「肌」があるのだと表したのだと思う。

ちなみにアメリカだと「我々は季節労働者だ!」と言う一点を誇りと自由とそして諦観の気持ちを込めて、強く押し出したスタインベック中上健次っぽい。
怒りの葡萄は名作だよな。

「自分はこれでなきゃ生きていけない」と言えないで、「これは正義だ悪だ」とのたまうようではダメだと思う。

そして「これでなきゃ」には自分のルーツや生まれ育った土地柄も関係してくるはず。

それを言い切る俺は唯神論者であり、右翼そのものなのかもしれないなと雑考。

まぁそんな大層なものが自分にあれば、そして仮にそれがあったとして、俺は背負うのだろうか?って話だけどな